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斉一的で固定的なものを打破して、多様で不定型なものを称揚するというこの発想もまた決して新しいものではないことを、確認しておこう。

 十八世紀の、実際、これに先行するすべての世紀の一般的命題は……、事物の本性(a rerum natura)が存在する、事物の構造が存在するということである。ロマン派にとって、これはまったくの虚偽であった。事物の構造などは存在しない、なぜなら、そのようなものはわれわれを閉じ込めてしまうであろうし、われわれを窒息させてしまうであろうからである。行動のための空間がなければならない。潜在的なものは実際にあるものよりも現実的である。作られるものは死んでいる。あなた方は芸術作品を制作したら、それを放棄しなさい。なぜなら、一旦制作されると、それはそこにあり、駄目になり、去年のカレンダーになっているからである。作られるもの、制作されたもの、すでに理解されたものは、捨てられなければならない。おばろげな感知、断片、暗示、神秘的な光明−−それが現実を把握する唯一の途である。なぜなら、それを限定しようとするどんな試みも、首尾一貫した説明を与えようとするどんな試みも、調和的であり、開始、中間部、終結を示そうとするどんな試みも本質的に、その本質において混沌とし、形をもたず、泡立つ流れであり、自己実現への意志の途方もない大きな流れであるものの歪曲であり、戯画化であって、不条理で冒漬的な閉じ込めの観念であるからである。(Berlin 1999=2000, 174-175)