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蛇足ながら上野の議論は、「実践」に注目する構築主義が、「言語論的転回」によって成立した言説至上主義を超えるものであるかのように示唆している点で、ミスリーディングである。「言語論的転回」のうちにはもともと、コンスタティブな次元とは区別されるパフォーマティブな次元への注目という論点が含まれていたからだ。その点でこの転回はむしろ、「語用論的転回pragmatic turn」と呼ばれるべきだろう。したがって「バトラーはフーコー=デリダ的な脱構築的な言説分析に、オースチン=サール流の言語行為論を結びつけることで、遂行性……という概念をもちこんだ」(上野 2001, 299-300)という解釈は、まったくの遠近法的倒錯に基づいている。最初からあったものが、新たなパラダイムをうち立てるために後から付加されたかのように扱われているからだ。

 そしてむろん、この「語用論的転回」それ自体によって何か新しいものが−−構造主義を「超える」ものが−−もたらされるわけではない。このパフォーマティブな次元を統御する文法(構造)へと話を進めることも可能だからだ(そうせざるをえないはずである)。その点ではバトラー=上野は、脱構築「以前」に位置づけられるべきである。