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マッキンタイアにとって、道徳をそれ自体として根拠づけようとするヒューム(情念による)、カント(理性による)、キルケゴール(選択=決断による)らの試み──そこから事実と当為の峻別という誤れる議論が生じてきたのだが──の問題点は、単にそれが過度に抽象的=普遍的な、無内容な道徳しか提示しえないという点にあるのではない。むしろ問題は、人間の概念そのものが間違っているところにある。そもそも機能概念に関しては、事実/当為というこの峻別は成り立たない。腕時計、農夫といった概念の定義は、それらが固有に果たすものと期待されている目的or機能に基づいて定義される。したがって腕時計という概念はもともと、よい腕時計という概念から独立には定義できない。人間もかつては機能概念であった。現実の(堕落した)人間/完全な人間/前者を後者へと変換する道徳、という三点セットにおいて扱われてきたのである。歴史的文脈の中で第二項が脱落したとき、それ自体として存在する個人(非機能概念としての個人)のなかで道徳を基礎づけるという絶望的な試みが生じてきたわけだ。その失敗は、この歴史的文脈のなかでとらえられるべきであって、道徳そのものの不可能性を意味すると解釈されるべきではない(MacIntyre 1981=1993, 64-77)。したがって、機能概念に基づいた新たな(普遍的)道徳を提示することもできるだろう。それはおそらく、差異の相互承認に基づくものであろう。しかしこの「道徳」からバリバールの言う「メタ・レイシズム」まではほんの一歩の距離でしかない(馬場 2001a, 212-213)。