このページは、スタンリー・カヴェル『理性の呼び声』・『フィルカル Vol. 9, No. 1』 の刊行を記念して開催するブックフェア 「スタンリー・カヴェルからはじめる書棚散策」 をご紹介するために、WEBサイト socio-logic.jp の中に開設するものです。 本ブックフェアは、2024年8-9月に、紀伊國屋書店 新宿本店三階にて開催されます。フェア開催中、店舗では 選書者たちによる解説を掲載した20頁のブックレットを配布しますが、このWEBページには その内容を収録していきます。 なお、過去にも本フェアと同趣旨のブックフェアを開催しています。そちらの紹介ページもご覧いただければ幸いです:
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「翻訳不可能」と目されていたスタンリー・カヴェルの大著、『理性の呼び声──ウィトゲンシュタイン、懐疑論、道徳、悲劇』[001] が翻訳刊行されました。本書の刊行は本年度の──そしておそらくは、これから数年にわたってずっと──出版界の一大事件と言っても過言ではないでしょう。これまでも散発的・継続的に翻訳が進んでいたカヴェルですが、主著と目される本訳書の刊行によって仕事全体への見通しがよくなり、よりいっそうの注目が集まるに違いありません。哲学雑誌『フィルカル』でもVol. 9, No. 1 にて「スタンリー・カヴェル」特集が組まれ[002]、研究の動向を伝えてくれる3本の論文に加えて、カヴェルの最も重要な論文の一つとされる「言うことは意味することでなければならないか」(の前半)が訳出掲載されています。
ここまでのところ、カヴェルの日本への紹介は映画論を中心に進められてきた感がありますが、カヴェルの映画論は「哲学者が映画論も書いた」といったたぐいのものではありません。そうではなく、彼の継続的な哲学的関心・哲学的主題(懐疑論という悲劇、声、自伝…)が人間の本性に関わるものであるがゆえに、それは 映画、文学、童話、音楽、オペラなどといった様々な文化的事象のなかにも当然のように顔を出すのであり、だからこそカヴェルの著作の中にもそうした文化的事象が姿を表すのです。
このブックフェアは、こうした性格を持つカヴェルの著作を、ジャンルに拘らず日々面白い書籍を探索している書籍遊猟者の皆さんに利用していただくために企画したものです。執筆者にはフィルカルの編集委員を中心に、かねてよりカヴェルに注目し、検討してきた哲学専攻のみなさんに声をかけ、カヴェルが思考の糧とした書籍やカヴェルから出発して我々がたどり着くことができるだろう書籍を集めてみました。カヴェルの著作に登場する文化的事象の幅広さに鑑みれば、狭く・偏りのあるリストではありますが、それでも「最初の一歩」としての価値は充分にあるものと思います。
リストのどこかから出発して或る書棚へと出かけ、カヴェルの著作に戻り、また他の書棚へと出かける。──そんなふうに、書棚をいつもと違った眼で眺めるためにこのブックリストを利用していただけたら幸いです。(酒井泰斗)
002
汲めども尽きせぬ発想の宝庫にして、人間の悲劇と真実を最も深いところまで探り当てた、哲学の「最新の古典」。行き届いた訳文、訳注、訳者解題を得たことで、私たちはようやく本書の全貌にアクセスできる。
古田徹也(東京大学准教授)
その全体が自伝でもあるカヴェルの著作群の一巻一ページ目である重要論文「言うことは意味することでなければならないか」(上)の初邦訳を掲載。カヴェルと向き合うことのはじまりとおわりを知るための一冊。
吉田 廉(東京大学)
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003 | センス・オブ・ウォールデン | スタンリー・カヴェル著 齋藤直子訳 | 2005 | 法政大学出版 |
004 | 道徳的完成主義──エマソン・クリプキ・ロールズ | スタンリー・カヴェル著 中川雄一訳 | 2019 | 春秋社 |
005 | 悲劇の構造──シェイクスピアと懐疑の哲学 | スタンリー・カヴェル著 中川雄一訳 | 2016 | 春秋社 |
006 | 哲学の〈声〉──デリダのオースティン批判論駁 | スタンリー・カヴェル著 中川雄一訳 | 2008 | 春秋社 |
007 | 幸福の追求──ハリウッドの再婚喜劇 | スタンリー・カヴェル著 石原陽一郎訳 | 2022 | 法政大学出版局 |
008 | 眼に映る世界──映画の存在論についての考察 | スタンリー・カヴェル著 石原陽一郎訳 | 2022 | 法政大学出版局 |
出るはずもないと思われていた『理性の呼び声』の邦訳[001] がとうとう出た。というか、私が訳したのだが、こうして名実ともに主著とされる書が邦訳されたことで、本邦におけるカヴェル受容のど真ん中にあいていた空白がようやく埋められることになるのではないかと思っている。本書は、すでに邦訳があった他の著作群で展開されている、一見すると相互の関連性が見えにくい思想たちを統合する、カヴェルの根本的な主題、それがどのようなものであったかをもっとも深く知ることのできる書であると言えよう。>>解説文を開く/閉じる
それは、第一に、いかなる疑いもさしはさむ余地のないような仕方で知ることによってしか、本当の意味でものに(世界に、他者に)触れることはできないという考えが──したがってきわめて不自然に見えることのある哲学的懐疑論さえも──人間の条件そのものから自然に生じるきわめて人間的な「悲劇」であることを示すことと、第二に、彼が「人間の声」と呼ぶものを哲学のなかに取り戻すことである。もちろんこの二つの主題は無関係ではなく、前者がどれだけ丁寧におこなわれているかに応じて、後者の必要性がいっそう明らかになるという関係性にある。またそもそも、その「人間の声」がどのようなものであるかが、第一の主題をとおしてしか見えてこないようなものなのである。その意味で、単純にその分量(邦訳で900頁超)だけから言っても、本書がカヴェルの書いたもののなかでもこれらの主題にもっとも丁寧に取り組んだ作品であることは疑いない。
第一の主題は、カヴェルが「懐疑論の真実」([001]46 頁)と呼んだものに集約されると言ってよい。それは、「全体としての世界に対する、あるいは他者一般に対する私たちの関係は、知るという関係ではない」([001]112 頁)ということだ。カヴェルによれば、懐疑論者に対して本当の意味で応答するためには、これを認めてやることが不可欠である。というのも、それを認めてやることによって、懐疑論者が知識の失敗として描いているものが、本当は、私たちがなにかを知りそこねているということなのではなく、人間の条件の拒絶にあるのだということが明らかとなるからである。そしてここに、カヴェルが自身の哲学的方法を「日常言語哲学」に連なるものだと見る理由がある。というのも、人間の条件を拒まざるをえない懐疑論者の──そして伝統的哲学者一般の──姿を明らかにできるのは、したがって哲学的懐疑論者に本当の意味で相対することができるのは、カヴェルによれば、日常言語哲学だけだからである。というのも、「私たちが普段(日常的に)どう言うか」に哲学的に訴えかける日常言語哲学は、私たちの「声」の力──他人に代わって、他人のためになにかを言う私たちの力、共同体を求め、共同体を構成する力、そして懐疑論者が悲劇的にもはなから拒んでいる力──に方法的に訴える唯一の哲学だからである。カヴェルが「本気で書いた最初の哲学論文」(『哲学の〈声〉』95 頁)である「言うことは意味することでなければならないか」(『フィルカルVol. 9, No. 1』[002] 所収)は、日常言語哲学のこの方法的優位性を声高に主張した記念碑的論文である。この論点はさらに、『センス・オブ・ウォールデン』[003] で展開されるソロー論や、『道徳的完成主義』[004] その他に見られるエマソンの道徳的完成主義についての議論の中へと流れ込んでいきながら、厚みを増していくことになる。
ところで、懐疑論というものが、カヴェルの言うように、本当に人間の条件そのものがもつ自然な可能性なのだとしたら、それの現れる場所が哲学だけにかぎられるはずはない。懐疑論の条件が否認と拒絶にあるのなら、懐疑論が示しているのは知識(knowledge)の失敗ではなく承認(acknowledgment)の失敗である。そしてこの承認の失敗という主題は、シェイクスピアの諸作品や1930 年代・40年代のハリウッド映画(カヴェルが「ハリウッドの再婚コメディ」や「知られざる女性のメロドラマ」と呼ぶジャンル)によく見られるテーマである。こうしてカヴェルは、懐疑論を、つまり声の否認、承認の失敗という主題を追って、それらが現れ、研究され、克服される舞台として、文学(『悲劇の構造』[005])、オペラ(『哲学の〈声〉』[006] とくに第3 章)、そして映画(『幸福の追求』[007]、『眼に映る世界』[008]、『涙の果て』[009])の領域へと踏み込んでいくことになる。
映画と精神分析の発展はどちらも女性の苦しみのなかに起源をもつ──大胆にもカヴェルはこう確信する。
人間という観念を喪失する懐疑論の最終段階を見据えながら、本書は新たな女性(人間)の想像を遠望する。
中川雄一(翻訳家/哲学研究者)
ハリウッドの古典映画をめぐって哲学と精神分析が対話を繰り広げる特異な映画論。
「私には、映画がまるで哲学のために創られたのように見える」
「哲学の存在についての問いこそが哲学の唯一の関心事である」など金言も盛りだくさん。
吉川浩満(文筆家/編集者/YouTuber)
独立宣言の一節をタイトルに冠した本書は、「新しい女性」が「承認」を通じて奪われた「声」を取り戻すことで、離婚や別れといった「結婚への懐疑論」に応答する七本の映画を、「再婚喜劇」という独自のジャンルをなす作品として評価する。「自分がどう観たか」を強調する自伝的要素も重要な一冊。
富塚亮平(映画論)
032 | リヴァイアサン(全4巻) | トマス・ホッブズ著 水田洋訳 | 1954 | ちくま学芸文庫 |
033 | 完訳 統治二論 | ジョン・ロック著 加藤節訳 | 2010 | 岩波文庫 |
034 | 社会契約論 | ジャン=ジャック・ルソー著 作田啓一訳 | 2010 | 白水Uブックス |
035 | 「資本」論──取引する身体/取引される身体 | 稲葉振一郎 | 2005 | ちくま新書 |
036 | ロック倫理学の再生 | 小城拓理 | 2017 | 勁草書房 |
037 | 国家の哲学 政治的責務から地球共和国へ | 瀧川裕英 | 2017 | 東京大学出版会 |
038 | 人間の条件 | ハンナ・アーレント著 志水速雄訳 | 1994 | ちくま学芸文庫 |
039 | 革命について | ハンナ・アーレント 志水速雄訳 | 1995 | ちくま学芸文庫 |
040 | 代表の概念 | ハンナ・ピトキン著 早川誠訳 | 2017 | 名古屋大学出版会 |
041 | Perfectionism | Hurka, Thomas | 1993 | Oxford, Oxford University Press. |
042 | アメリカ憲法は民主的か | ロバート・A・ダール著 杉田敦訳 | 2003 | 岩波書店 |
043 | 憲法で読むアメリカ史(全) | 阿川尚之 | 2013 | ちくま学芸文庫 |
044 | アメリカの反知性主義 | リチャード・ホーフスタッター著 田村哲夫訳 | 2003 | みすず書房 |
045 | 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 | 森本あんり | 2015 | 新潮選書 |
046 | The Claim to Community: Essays on Stanley Cavell and Political Philosophy. | Norris, Andrew (ed.) | 2006 | Stanford, Stanford University Press |
046 | Across the Great Divide: Between Analytic and Continental Political Theory. | Arnold, Jeremy | 2020 | Stanford, Stanford University Press |
『アメリカのデモクラシー』[31] はトクヴィルによるアメリカ論の古典的名著であり、アメリカという特殊な共同体の理念の強さと弱さを描き出したものとして現代でも読まれ続けている。アメリカで生まれ、アメリカのなかで哲学をすることに自覚的であったカヴェルの営みを考える上で(トクヴィルの書名を離れても)「アメリカのデモクラシー」という問題群を考えることは非常に重要である。>>解説文を開く/閉じる
アメリカのデモクラシーを生んだ源流思想という点ではまずホッブズ『リヴァイアサン』[32]、ロック『統治二論』[33]、ルソー『社会契約論』[34]に代表される社会契約説の著作が参照されるべきだろう。カヴェルは彼らの著作をさまざまな箇所で引用している。たとえば『幸福の追求』においては一見では個人的なものに思える結婚という概念が、同意と相互性の問題として国家の正統性の問題圏の中に置きなおされる。「結婚という概念は、(…)、同意と相互性についてのさらに踏み込んだ実験である」(『幸福の追求』[07] 275頁)。社会契約説についての書籍は入門書から専門書まで枚挙にいとまがないが、初学者向けに啓発的なものとして 稲葉『「資本」論』[35]、カヴェルのこだわる同意の問題については小城『ロック倫理学の再生』[36]と瀧川『国家の哲学』[37] が最初に思いつく。
しかし、社会契約論がそのままデモクラシーに結び付くわけではない。デモクラシーのためには自分をなにがしかのものであると観念し、当事者として行動するための自負を持つこと、そして自分と異なる他者への承認の契機が必要である。トクヴィルがアメリカのタウンシップに見出したのはまさにそうした精神性であった。こうした政治的主体性の問題について、カヴェルとの関連ではもちろんエマソンの思想がその観点から引き合いに出されるが、アレントの著作、特に『人間の条件』[38] や『革命について』[39]との比較研究も進んでいる。また、カヴェルから直接インスピレーションを受けたものとしてはピトキン『代表の概念』[40] が重要である。
この論点を完成主義に結び付けてみよう。ハーカの『完成主義』[41] で明らかにされる通り、完成主義は息の長い道徳的理想のひとつであるが、カヴェルは『道徳的完成主義』[04] においてある種の完成主義を擁護しつつ、それはエリート主義的なものではないという。また、『幸福の追求』[07] における映画『フィラデルフィア物語』の読解では、アメリカにおける貴族階級の不在とそれに代わる「一流の人間」の観念が論じられる。こうしたモチーフを理解するためには、アメリカの国政が徳を備えたエリートが国を統治する古典世界的モデルから脱却して徐々に平等を志向するようになった経緯を押さえておく必要があるだろう。これについてはダール『アメリカ憲法は民主的か』[42]が詳しいが、その前段階として日本の読者は阿川『憲法で読むアメリカ史』[43] から入ることを薦める。またカヴェル自身がそれに与すると言いたいわけではないが、アメリカにおける反エリート主義的伝統の分析としてホーフスタッター『アメリカの反知性主義』[44] と森本『反知性主義』[45]を読むことで、この問題の特殊アメリカ的な複雑さがよりよく見て取れるはずである。
最後に、カヴェルの政治哲学が現在どのように受容されるかについて触れておきたい。前述のとおり、アレントやハーバーマスとの比較研究は進んでいるが、その全容の解明といった点ではいまだ進行中と言ってよいだろう。貴重な仕事としてはノリスらによる『コミュニティへの呼び声』[46] がある。また、アーノルド『大きな分断を乗り越える』[47] では、分析系アプローチと大陸系アプローチの総合という観点からカヴェルの政治哲学が一章を割いて論じられている。
王も貴族もいない「新しい世界」で政治は可能なのか貴族出身のトクヴィルは考え続けた。アメリカの制度や気風を観察しつつ、ときに摂理や人類の未来にまで話が及ぶ大胆な構成をもつ不朽の名著。
長門裕介(大阪大学教員)
048 | エマソン論文集(上) | ラルフ・ワルド・エマソン著 酒本雅之訳 | 1972 | 岩波文庫 |
049 | 自己信頼(新訳) | ラルフ・ワルド・エマソン著 伊東奈美子訳 | 2009 | 海と月社 |
050 | 『存在と時間』 (全4冊) | マルティン・ハイデッガー著 熊野純彦訳 | 2013他 | 岩波文庫 |
051 | 『精神について』 | ラルフ・ウォルドー・エマソン著 訳 | 1996 | 日本教文社 |
052 | 『森の生活 上 ウォールデン』 | ヘンリー・デイヴィッド・ソロー著 訳 | 1995他 | 岩波文庫 |
054 | Philosophy The Day after Tomorrow | Stanly Cavell | 2005 | Belknap Press of Harvard UP. |
055 | 『ヘルダーリンの讃歌「イスター」』ハイデッガー全集53巻 | マルティン・ハイデッガー著 | 2021 | 東京大学出版会 |
056 | 『思惟とは何の謂いか』ハイデッガー全集8巻 | マルティン・ハイデッガー著 | 2021 | 東京大学出版会 |
057 | 『何処から何処へ──現象学の異境的展開』 | 池田 喬 他著 | 2021 | 知泉書館 |
058 | 『言葉が呼び求められるとき──日常言語哲学の復権』 | アヴナー・バズ著 訳 | 2022 | 勁草書房 |
059 | 『ハイデガーと現代現象学──トピックで読む『存在と時間』』 | 池田喬 著 | 2023 | 勁草書房 |
060 | 『純粋理性批判』 | カント著 熊野純彦訳 | 2012 | 作品社 |
I アメリカ哲学の体現者ハイデガー──エマソンとソロー
「アメリカ哲学」はカヴェルの重要テーマだが、アメリカ哲学とは彼にとって分析哲学でもプラグマティズムでもなく、一九世紀にエマソンとソローが語った思想のことだった。彼らの哲学は自然思想であると同時に、独立というアメリカ建国の理念を引き受ける政治思想でもある。驚くべきことに、カヴェルにとって、彼らに似た思想をアメリカ以外の地で体現した人物の筆頭はハイデガーなのである。>>解説文を開く/閉じる
ヨーロッパの模倣をやめて自分たちの土地で自分たちの思想を生もう-このことをアメリカの学者たちに訴えるエマソン「アメリカの学者」(『エマソン論文集(上)』[48] 所収)はカヴェルのお気に入りだ。自己啓発書の古典であるエマソン『自己信頼』[49]は、自分が思っている通りに発言する勇気を鼓舞する著作であり、カヴェルに「道徳的完成主義」のモティーフを与えた。ハイデガー『存在と時間』[50]で語られた「本来的自己」は、カヴェルにとって、エマソンが「歴史」(『精神について』[51]所収)で「到達していないが到達可能な自己」と呼んだものの等価物であり、『存在と時間』は完成主義の実例だった。
次に、『センス・オブ・ウォールデン』[03]を著すほど、カヴェルにとってソロー『ウォールデン』[52]は重要だった。この書でソローはウォールデン湖に立てた小屋での暮らしを綴ったが、ハイデガーも黒い森のトートナウベルクに山荘を建て、暮らし、執筆した。カヴェルは、後期ハイデガーの「建てること、住むこと、考えること」(『技術とは何だろうか』所収)[53]を読み、ソローとハイデガーの類似点に気づいたと言う。両者において「考えること」は「建てること」「住むこと」から独立に成立する何かではないのだ。
カヴェルはさらに論文「ソローは湖を、ハイデガーは川を考える」を著し、「水」をキーワードに両者を近づけた[54]。ソローは『ウォールデン』で、朝の目覚めの重要性を強調し、朝にまず水を探しに行くことについて語っている。他方、カヴェルが注目するように、ハイデガーは『ヘルダーリンの讃歌「イースター」』[55](イースターはローマ人にとってドーナウ川の下流を指す名)で、ヘルダーリンを水の詩作者と捉えていた。ハイデガーとソローは、自然の近くに居場所を作り、自然を見いだす人間の存在を語ることを思索的な生き方と見なしていたようだ。この生き方(生活様式)が重要なのは、「思索(思考すること、考えること)とは何か」という根源的な問いを喚起するからである。『思惟とは何の謂いか』[56] と問う際にハイデガーが「思考する(denken)」と「感謝する(danken)」の語源的なつながりを示唆したことはカヴェルにインスピレーションを与えた。
カヴェルにとって、エマソンとソローと類似の思想をハイデガーに見いだすことはアメリカ哲学の探究を支える杖のようなものだった。その詳細については拙論「アメリカ哲学の体現者としてのハイデガー──ローティ、カヴェル、ねじれた現象学の異境的展開」(『何処から何処へ──現象学の異境的展開』[57] 所収)を参照して欲しい(この拙論は『ローティとカヴェル──ハイデガーとともにアメリカ哲学を発見する二つのやり方』(仮)として、よはく舎から単行本に形を改めて近く刊行される)。
II アメリカでイギリスとドイツの亀裂を埋める
カヴェルは『センス・オブ・ウォールデン』[08] で「イギリスとドイツの哲学の伝統の間の亀裂を埋める」ことがずっと自分の執筆の動機だったと言っている。ここでイギリスの哲学とはオースティンらの日常言語哲学のことだ。日常言語哲学とはカヴェルにとって分析哲学の一分野ではなく、日常的なものへの熱烈な関心によって特筆される思考のスタイルである(分析哲学の枠組では過去の理論として忘れかけられているこの哲学の魅力をバズ『日常言語学派の復権』[58] は描き直そうとしている)。ウィトゲンシュタインはカヴェルにとって、ドイツとイギリスの両者を結びつけている哲学者なのだろう。そのウィトゲンシュタインとともに彼はドイツの哲学者ハイデガーを「懐疑論の真実」──人間と世界との関係は「知ること」ではない──を語る者として呼び出した(拙書『ハイデガーと現代現象学』[59] 参照)。ただその際、二人はカント『純粋理性批判』[60] の継承者だとされていることには注意が要る。カヴェルにあって、カントの「物自体」は実在に対して人間は「知る」以外の関係をもっているという洞察を示したものなのである。
『ワードマップ 現代現象学』刊行の報を聞いて悔しがる著者(かわいい)。
それでも斜に構えたりせず自分の手で現代現象学を描き直す著者(かっこいい)。
本書と『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』をあわせて読んで、摘み食いではない仕方で『存在と時間』と付き合えるようになろう。
酒井泰斗(会社員)
062 | プラグマティズムの帰結 | リチャード・ローティ著 室井尚・吉岡洋・加藤哲弘・浜日出夫・庁茂 訳 | 2014 | ちくま学芸文庫 |
063 | 哲学と自然の鏡 | リチャード・ローティ著 野家啓一 監訳 | 1993 | 産業図書 |
064 | 偶然性・アイロニー・連帯 | リチャード・ローティ著 齋藤純一・山岡龍一・大川正彦 訳 | 2000 | 岩波書店 |
065 | ロリータ | ウラジーミル・ナボコフ著 若島正 訳 | 2006 | 新潮文庫 |
066 | 一九八四年〔新訳版〕 | ジョージ・オーウェル著 高橋和久 訳 | 2009 | ハヤカワepi文庫 |
067 | リベラル・ユートピアという希望 | リチャード・ローティ著 須藤訓任・渡辺啓真 訳 | 2002 | 岩波書店 |
068 | 正義論 改訂版 | ジョン・ロールズ著 川本隆史・福間聡・神島裕子 訳 | 2010 | 紀伊國屋書店 |
069 | 〈公正〉を乗りこなす | 朱喜哲著 | 2023 | 太郎次郎社エディタス |
070 | 人形の家 | ヘンリク・イプセン著 原千代海 訳 | 1996 | 岩波文庫 |
071 | The Ironist and the Romantic: Reading Richard Rorty and Stanley Cavell | Áine Mahon | 2014 | Bloomsbury USA Academic |
思想史家ラトナー゠ローゼンハーゲンは『アメリカのニーチェ』[61]において、「アメリカ思想のうちの反基礎づけ主義」の系譜を体現する二人の哲学者として、カヴェルとローティの名を挙げている。この二人は、たしかに少なからぬ共通点をもっている。いずれも後期ウィトゲンシュタインからの多大な影響を受け、主流派のスタイルに背を向けて英米哲学と独仏哲学との「西洋の哲学的精神の裂け目」(『哲学の〈声〉』[06] 18頁)を歩もうとした哲学者である。>>解説文を開く/閉じる
しかし、こうした共通点の一方で、両者の間にはとりわけ哲学的懐疑論の扱いをめぐって深刻な対立がある。それがよくわかるのが、ローティの『プラグマティズムの帰結』[62]に収録されている『理性の呼び声』[01]の書評論文だ。そこでは同書前半の懐疑論をめぐる議論がこきおろされる。ローティにとって、職業的哲学で扱われる懐疑論と「深淵でロマン主義的な意味での懐疑論」は地続きではない。
他方、この手厳しさは、一種の近親憎悪ないし自己投影という側面もあるかもしれない。同書評では最後に一転して直近に書かれた第四部を「彼だけの書き方に到達している」と激賞する。それは、ローティ自身が前年に刊行した『哲学と自然の鏡』[63]でめざしながらも達成できなかったものである。彼がそれをなしとげるのは89年の『偶然性・アイロニー・連帯』[64]であり、同書ではまるでカヴェルのように、人間的有限性と道徳の問題がナボコフ『ロリータ』[65]やオーウェル『一九八四年』[66]といった文学作品の検討を通じて論じられる。
さらにまた「トロツキーと野生の欄」(『リベラル・ユートピアという希望』[67]収録)のようなエッセイは、哲学上の主張を論証ではなく自伝をもって差し出すというカヴェルと通底する哲学観から執筆されていると捉えることができる。二人は直接交わらずとも、どこか重なる哲学者なのである。
それはスタイルの話に留まらない。両者の少なくとも後半生のテーマが「われわれ」とその「道徳」の問題であったということにも注目すべきだろう。この点は、二人それぞれのロールズ『正義論』[68]への応答から鮮明になる。ローティの視座を通じて『正義論』を検討した拙著『〈公正〉を乗りこなす』[69]の最終章で、『道徳的完成主義』[04]におけるイプセン『人形の家』[70]論を介したカヴェルのロールズ批判を援用したのはこのためである。
両者の哲学の比較と接続は、まだ十分になされているとは言えず、これから耕されるべき肥沃な大地が広がっている。なお、この路線での貴重な研究として、マホン『アイロニストとロマンチスト:ローティとカヴェルを読む』[71]がある。
SNSでは、さまざまな正しさが衝突しているように見える、しかし本来の正しさとは、だれかを煽るためのものではない。私たちは言葉を通して、社会に対して、正しさを実践することができる。──そう伝えてくれる、希望の書!
三宅香帆(文芸評論家)
美術批評家マイケル・フリードの「演劇性」批判には、朋友カヴェルの演劇論がこどましている。『没入と演劇性』は、演劇に比して絵画にあるべき率直さを求めたカヴェル/ディドロというふたりを縫いあわせた織物の片面である。
大岩雄典(美術家/多摩美術大学)
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慶應義塾大学文学部教授。>>業績
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1979年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
新潟大学教育学部准教授、専修大学文学部准教授を経て、現在、東京大学大学院人文社会系研究科准教授。専攻は、近現代の西洋倫理学・哲学。>>業績
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1985年大阪生まれ。大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授ほか。大阪大学大学院文学研究科博士課程[哲学・哲学史]修了。博士(文学)。>>業績
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大阪大学社会技術共創研究センター特任助教。慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学。専門は倫理学、特に幸福論や人生の意味、情報倫理学。現在、大阪大学社会技術共創研究センター特任助教。>>業績
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甲南大学文学部教授。専門はフッサール現象学を中心とする哲学・倫理学。人間の生き方に目を向ける現代倫理学の可能性を探っている。>>業績
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1977年生まれ。2008年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。現在、明治大学文学部教授。>>業績
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会社員。ルーマン・フォーラム管理人(socio-logic.jp)。
社会科学の前史としての道徳哲学・道徳科学の歴史を関心の中心に置きつつ日々書棚を散策しています。ここ15年ほどは、自分が読みたい本を ひとさまに書いていただく簡単なお仕事などもしています。 >>業績
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1995年、神戸市生まれ。東京大学人文社会系研究科博士課程、日本学術振興会特別研究員(DC1)。専門は行為の哲学と道徳哲学。 >>業績
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紀伊國屋書店 新宿本店 三階 G04棚(三階カウンタ前フェア棚)
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2024年8月9日(月)から9月末まで
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株式会社ミュー
〒113-0022 東京都文京区千駄木1-23-3 フィルカル制作部 philcul[at]myukk.org |