1: 本日のお題と結論
1-1 主催者からの提題と結論
主催者からの依頼提題は次のようなものでした:
- 出版や研究会の企画など、一連の活動をどのような動機によって行っているのか教えて欲しい。
- 社会学の現状について見解を──特に、批判的な見解があればそれを──教えて欲しい。
手始めに、これに簡単に応えておくと、
- 1: 特別に強い目的や動機はない。
- 2: 特にない。
となります。したがって以下では、「どうしてそうなのか」に対する答えに相当するものを与えることを目指したいと思います。
1-2 報告の概要
報告の内容は、
- まず簡単に経歴などの紹介をします[→2]。これは、問1 に対する弱い答えは与えるはずです。
- 次にこの15年ほど私がやってきた活動を簡単に振り返ります[→3]。個別の出来事については、その都度それをそのように行った理由が言えますので、これも 問1 に対する弱い答えをそれぞれ与える筈です。
- 次に、3での確認を受けて、若干の考察を行ないます。ここでは、
- 私が研究活動というものをどのようなものだと捉えているかを確認したうえで、
- 私自身が行ってきた活動を そうした研究活動への 二次のコミットメント として特徴づけてみます。
- 最後に、最近おこなっている主な事柄を簡単にご紹介して[→5]この報告を終わりますが、
- 本日のお話は基本的に「事例の報告」であって特別の結論を持つものではありませんから、「質疑応答」と言われても困ってしまうかもしれません。そこで、フロアのみなさんに私からの簡単な質問を提示してお話を終わることにします[→6]。
2. 報告者自己紹介
- 会社員。ルーマン・フォーラム管理人。
- 某地方国立大学大学院理学研究科(物性物理学)修士課程中退。
- 大学入学前の志望専攻は科学哲学・科学史。在学中は哲学科の講義やゼミなどにも参加していた。どこかの時点で哲学科に転科するつもりでいたが、院進学時に転科しそこねたまま大学を出てしまった。
- 音楽制作会社に4年ほど勤務(主としてCM音楽や映画などの背景音楽の制作)。その後 金融系ベンチャー企業のシステム部に転職、現在に至る。
- 1997年4月、メーリングリスト「ポリロゴス」に参加。のちにそこからルーマン・フォーラム(第一期)が始まる。
- 2001~2002年頃、ナカニシヤ出版から「単著を出しませんか」とのオファーを得る。 〔→ここから本日の話がスタート〕
3-1. なにをしてきたか1: 要約
はじめに、この項で話すことを要約しておきます。
主な出版物 |
やったこと |
1a |
【論文集】 |
(ナカニシヤ出版、2009/04*)
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企画・人選・研究会運営・編集・執筆 |
1b |
【論文】 |
(ソシオロゴス31、2007/10、小宮友根との共著**)
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執筆 |
2 |
【訳書】 |
リンチ『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』(勁草書房、2012/10)
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出版社との交渉 |
3 |
【教科書】 |
(新曜社、2009)
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出版社との交渉・企画・人選・研究会運営・執筆 |
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- [3A1] 一つの出版企画1a の依頼をきっかけとして、
- [3A2] エスノメソドロジー研究の様々なプロモーションをおこなった。その際、
- [3A3] 出版を中心に据えるのではなく、
- [3A4] 学術活動における実践的な規範的諸契機に従った様々な介入をおこなった。
|
ここでまず注目していただいてよいのは、10年以上に渡る活動であるにも関わらず、関わった出版数が異様に少ないということです。これは、研究支援活動を「書籍刊行」を中心・目的にはしてこなかったことの当然の帰結なのですが、この点については解説が必要でしょう。
* のち(2016年4月)に続編も刊行しました。
** のちに 小宮友根(2011)第二章に再録されています。
3-2. なにをなぜしてきたか: 概要
次に、上記主要出版物にかかわる限りでの活動を時間に沿ってピックアップしてみます。いったん「資料」を見てから戻ってきてください。
= = = = = = = =
ご覧のとおり、すべてがゆっくりとした進捗です。〔1a 論文集〕にいたってはお話をいただいてから出版するまでに8年もかかっています。この点についても解説が必要でしょう。[…]
3-3. なぜそうしたか: 補説
リストの最初のほうにあり「きっかけ」に当たる【B】は、その後の活動の「方針」に関わるので、まずそれについてだけ「なぜそうしたか」を振り返ってみます。それ以降の項目については 4. で立ち返りましょう。
【B】について
一度は断った出版のお誘いを、考えなおして引き受けたのはなぜか、というお話です。3つくらいは理由がありました。
- 一つ目。わたしは独りの社会学愛好者として社会学から恩恵を被ってきたので、享受者(=読書人)の立場から、社会学に対して多少の恩返しを考えてみようかと思った、ということがありました。
- 二つ目。自己紹介で述べたように、もともと私は科学哲学や科学社会学に関心を持ってきました。そこには、知識を導く・獲得する「やり方」に関する関心が含まれています。通常その過程は読者には見えないものですが、出版企画というチケットがあれば、自分で場を作って人を集め、目の前で仕事の進め方を見せてもらうことができるだろう、とも考えました。
- […]
以下敷衍。
3-3-1. 一つ目: 何をターゲットにするか
「何を選べば最大の恩返しになるか」という問いは、「どんな主題、どんな研究領域を取り上げると もっとも効果が引き出せるか」という問へと結びつきます。 これについては、
- 社会学が既に持っているが充分に使えていない可能性を引き出せる研究領域。
- 自分たち自身ではうまく解決できない問題を何か抱えており、そのことが自覚されていて解決が望まれており、かつ、門外漢の参入を許容してくれる研究領域。
- 報告者自身の知的バックグラウンド(既に所持している教養財)を上手く活かせる題材。
を選ぶのがよいと考えましたが、幸いにしてこれら全てを充たすものは現実に存在するだろう──それはエスノメソドロジー研究だろう──という心当たりがありました。そして、実際に「予備調査」を進めてみたところ、それをさらに確信することになりました
(残念ながら、本日は この点については お話する時間がありませんが)。
すなわち、エスノメソドロジー研究は、
- 報告者が 社会学の魅力であると考えている、高い具体性と高い抽象性を結びつけて研究を進めようとする姿勢を、特に深く自覚的に追求している。
- 一過性の流行が終わったあとは社会学同業者に対する営業に成功しておらず、社会学にとっては「免疫済み」の状態にある。すなわち、
- 「それが与える知見のうち重要なものは すでに社会学に取り込み済みであり、もはや そこから新たな知的貢献を期待することはできない」とか、
- 「その扱う領域はごく限られたもの──対面的なお喋りなどを中心とする、「ビデオに映るもの」だけである──ために、社会学の多くの論題とは関係を持たず・考慮する必要もない」
といった扱いを受けている。
- 研究の協同性に対する強い指向を持っている。(たとえば、単なる「研究会」ではなく、データを共同で観るところから議論を行う「データセッション」などがしばしばおこなわれている。)
- 現状の問題点が少なからぬメンバーに認識されており、現状変革への試行に対する賛同の見込みがある。
- 社会学業界において、エスノメソドロジーの思想史的な革新性がほとんど気づかれておらず、エスノメソドロジー研究者たちからの適切なプレゼンもされていない。
・・・といった状態にあるように、報告者には思われました。
[…]
3-3-2. 二つ目: どのようにコミットするか
[…]
3-3-3. なぜそうしたか 【B】3/3:
[…]
4. 考察: 研究活動への二次のコミットメント
研究活動をどのようなものだととらえた上で、
それに対してどのようにコミットしたか
4-1 研究活動の規範的構造 1
経験的研究:
- [O] 他人にもアクセス可能な資料と やり方に基づく、
- [S] 特定の対象・主題に関する
- [N] 新規性を含む
- [T] 正しい
- [K] 知識の獲得
を目指した活動。
重要なポイント
「何を扱う?」/「新しい?」/「正しい?」・・・
→こうした総てのことを、
自分たちで (その決め方自体も含めて)決めなければならない。
- 社会学研究互助会(第三期)
- 紀伊國屋書店ブックフェア
- ニクラス・ルーマン研究会
- 「現代の社会学(20世紀社会学史)」講義
- 行政社会学研究会
- 史料データセッション
5-1. 社会学研究互助会(第三期)
- この期では、主として非エスノメソドロジストを招いて、エスノメソドロジー文献がどのように読めたか(読めなかったか)を教えてもらうことを趣旨とした合評会を連続でおこなっている。
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5-2. 紀伊國屋書店ブックフェア
- 2014年2月。異動に伴う依頼。
- 依頼が来てから二週間程度でブックレットの企画・人選・選書・原稿執筆を完了した。
- 各執筆者の実質的な執筆機関は3日~5日程度。現在、若手のエスノメソドロジー研究者たちには、割り込み作業をこのペースで可能にするくらいのコンセンサスと協力体制がある、ということ。
- 「エスノメソドロジー入門」でなく 読書人のための企画、という方向性。
- 「実践が普遍的である──それはどこにでもある──ので、エスノメソドロジーも普遍的である」ということを強調する内容に。
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5-3. ニクラス・ルーマン研究会
- 分野の研究水準を上げることを目的として2013年3月にスタート。
- 特定小分野の全体としての研究水準を上げるには、博士論文の水準上昇を狙うことが短期的に効果的。
- 長期的には、「独り一看板」という理論屋の悪習から集団的に脱却することを目指して
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5-4. 「現代の社会学(20世紀社会学史)」講義
- 2014年度下半期。異動による一時的な依頼。
- 20世紀北米ローカルな学としての現代社会学の歴史。
- 社会学を 行動科学との関連性にフォーカスして捉えることを目標を定め、
- 第二次大戦後における行動科学の興隆を準備することになった、特に重要な幾つかの主題(小集団・広告・選挙・組織など)に関する1930~1950年代の研究を紹介するもの。
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5-5. 行政社会学研究会
- 2014年7月スタート。「行政社会学」というジャンルは ある時期以降低迷中。
- しかし社会学(~社会調査)の多くの分野において、研究の中で「行政」との関わりが出てくるものは多い。そうした社会学研究は、「行政サービスのあり方(の報告)」にという観点からも捉えてみることで、さらに研究を進められる可能性がある。
- またここ二十年ほど、政治思想・政治哲学においては、しばしばネオリベラリズムの批判が行われてきた。しかし、そうした議論が内実のあるものであるためには、現実の行政のあり方の検討がぜひとも必要であろうし、社会学はその責任の一端を負っているはず。
- こうした現状に鑑みて、行政学・行政法学・政治学などの研究者を招いて、次のような場を持ってみたい:
- 社会学者はデータと分析を見せ、
- 政治学・行政学の観点から検討してもらう・教えてもらう
- 中期的には、経験的研究を行っている政治学・行政学分野の研究者にも参加していただくことを目指す。
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5-6. 史料データセッション
- 2014年6月スタート。EM者が恒常的に行っているデータセッションを、歴史資料において行う試み。
- 手持ちのデータを持ち寄り、「作業仮説」、「リサーチクエスチョン」などにこだわらずに、共同でデータを見、分析する場。
- 歴史研究の方法論については──「資料批判」以外のことが──語られることがあまりないように思われるが、おそらくそれは「形式的に」語るのが難しい(面倒な)ことだから。
- 「形式的」に語れないことは、EMにとってはむしろ格好の研究対象であり、EMはその点をクリアにすることにも貢献できるのではないか。
- 逆に EM側が得るものも大きいのではないかと予想。
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もともとは、『概念分析の社会学1』を出したところでこうした活動は終えるつもりでした。が、あれこれ成功しすぎてしまったせいで、まだなんとなくて続いています。時間とお金の持ち出しが多すぎるし、基本的にはそろそろ──『概念分析の社会学2』を出したところで──辞めて 別のことをしたいと思ってはいるのですが、持続可能なやり方が なにかあれば もう少し続けてもよいとも思っています。
【Q】
- 今後わたしはどうするのがよいでしょうか。
- もしも こうした活動を続けたほうがよいとしたら、それを維持できる どんな手段・形態があるでしょうか。
Q.01 仕事との両立の秘訣は
[質問]
残念ながら、基本的には この質問に対して有益なことは言えません。
「仕事と研究を両立させるためにどんな工夫を」という点について言えば、まず、研究はしていないので、私については この質問が成り立ちません。
「モードが違う」という点について言えば、私にとって「二次のコミットメント」は「余暇」であり、そして「仕事と余暇のモードは違う」というのは当然のことなので──むしろ そうじゃないとおかしい──、悩んだことがありません。
実際、休日に研究会などに参加している時などには、私はその場で完全にくつろいで過ごしています。
他方、研究志望者が、私と同じスタイルでことを進められるとは思えません。なので、「悩みがある・苦しい」と言われれば、「そこは悩み苦しむべきところなのではないですか」と返すのが正解であるようには思います。
原則的にはそう思うのですが。しかし、これはこれでやはり やや極端な言い方ではあって、(私とは異なり)研究者志望ではあるけれども「まったくの余暇スタイル-と-悩み苦しみスタイル」の間にあるかもしれない途を探ってみてもよいかもしれません。それについて、いまこの場で即興的に考えてみると。
私が同じ境遇で──ここには「東京近隣に住んでいる」という前提を含みます──「将来的には博士論文を書きたい」と考えていたとしたら、まずは、
- 小さめのインフォーマルな研究会に参加し、
- 二年くらいの大まかな見通しと、2~3ヶ月単位の小さな目標をたてて、
- 継続的に数カ月ごとに小報告をおこなう
ことを考えるだろうと思います(これは相手──行方の定まらない研究経過を見守ってくれる人たち──が必要なことなので、その点が最大のネックかもしれませんが)。
報告の内容・スタイルは、たとえば、
- 「先行研究のうち、その数ヶ月であたることができたものについてまとめ、その限界内で導くことが可能な暫定的な知見や見通しを提示する」とか、
- 「その時点までについて入手できた資料やデータについて、その期間内で可能であった小さな分析を行ない、小さな帰結を導く
とかいったもの──要するに、「この二ヶ月間では、ここまでやりました」というタイプの報告
(=研究報告というより進捗報告)──です。そうする狙いは次のようなことです:
- 小さな仕事を小さく進めるなかで 作業訓練をおこなうこと。
- 研究以外の事情によるペースの撹乱に強い作業スタイルを確保すること。
- 仕事が忙しかったら報告ペースや報告内容の変更で対応できるようにしておくこと。
- しばらく作業から離れても、すぐに作業に復帰できるように記録を残しておくこと。
- 作業の具体的な進捗が他人に見えるようにしておくことで、他人からのアドバイスを受けやすくすること。
・・・などなど。
こうしたやり方が向いていない人もいるでしょうが、そうした人に私が言えることはほとんどありません。いずれにしても、研究について誰かのアドバイスを受けようとするなら──たとえそれが「時間管理の難しさ」といった内容であったとしても──、なんらかの手掛かりになるものが必要です。まずはそれをどうやって用意するか、日々の事柄で途を見失わないようにどんな進捗管理ができるか、ということを考えてみるのがよいのではないでしょうか。
Q.02 二次のコミットメント/一次のコミットメント
[質問]
「一次のコミットメントをおこなう」が答えです。
「二次のコミットメント」にまつわる方針は──振る舞いを制限するためのものとしてではなく──一連の振る舞いを首尾一貫したものとして可能にするために採用しているものなので、「それはそれとして、やれることがあるなら(ファースト・オーダーに含まれることでも)やるよ」というのが私の基本的な姿勢です。それはそうなのですが。
[…]
ついでに、これに関連してしばしば見受けられる逆転現象について少し述べておきますと。
なんらかの研究会に参加するとき、そのほとんどの場合において、私は「その論題に関する知識が参加者の中で最も乏しい」というのが常態です。すると私の振る舞いはかなり限られてしまい、
- 著者・報告者が提示している目標に則して、
- その論考が提示している資料・データだけに基いて、
- 著者・報告者がおこなっている推論を内在的にたどり、
- 著者・報告者が提示している結論を、
- (たとえばそれが草稿の場合であれば、より高い完成度を目指す方向で)検討する
という以外のことは ほとんどできないわけです
(しかも、またほとんどの場合、その場で必要な──しばしば基礎的な──知識を相手に教えてもらいながら・それについて議論する、ということにもなります)。
こうした参加形態の良し悪しは、
- 知識の乏しい人を議論に参加させることが、他の研究者たちにとってどのくらい面倒か
- その知識の乏しい人が、実際に当該論文の内容検討に貢献できるか
によって決まるでしょう。
他方。
当然のことながら、研究者はそれぞれのフィールドを持っており、「それに関する知識で勝負する」──そして「知らないこと」(=自分の責任の持てない領域)については語りたくない──という基本的な指向を持っています。するとしばしば、発言の内容が、
- 「私は報告対象であるXについては詳しくないのですが、私のフィールドYでも似たような話がありまして、……」
といったものになることがあります。このタイプの発言が「当該報告をよりよいものにする」ことに役立つことがまったくない、ということはないのですが、しかし それに貢献しない外在的な議論になってしまうことも少なくありません。
「ハズれ」の研究会の場合、下手をすると 質疑応答時間のほとんどがこの類の発言で終わってしまい、結局、当該報告内容の検討には戻ってこなかった、などということが起こりえます。
しかも/にもかかわらず、終会後には「きょうはバラエティーに富んだ発言がでてよい研究会だったね」といった評価が飛び出したりすることがあるので、現代社会の複雑性を感じさせられることになります。
こういうのを見ていると、「研究者もたいへんだな」と思いますね。
追記
「教科書の顔をした論文集」について
「教科書風論文集」問題について、「どんな教科書をどう作るか」について語ってしまいましたが、これは失敗でした。「教科書風論文集」が出てしまうのは、
- 人文社会系の研究者の側には、おそらく「共著論文集を出したい」というタイプのニーズがあり、かつ
- 論文集を出すのが難しい(~売れない)
からなのでしょうから、これがいったいどういうことなのか という話をすべきでした。そういうニーズってなんなのか、というのは、
また、「共著論文集の形で出したい!」という研究者側のニーズと「そんなもんは売れない」という出版社側の事情との安直な妥協が「A:教科書の顔をした論文集」とか「B:著名研究者編の論文集」とかを生むのだとすれば、
当日の話題の核心に関わることだったかもしれません。
前者Aは一時期ほど見かけなくなったけど、後者Bはむしろ量産され続けているのではないかという気もします。
妥協が必要な場合はなおさらのこと、両者の事情を睨んだ上で よりよい妥協点を探る、という仕事の余地が発生するわけですから、それについて考えるべきでした。(誰かが)
方向性二つ:
- どんな妥協点を目指すか。
- 「論文集」へのニーズとはなんであり、そのニーズは 他のどんなやり方で果たしうるのか。
[以下略]