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正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築

馬場靖雄
At the Gate Called "Justice"
BABA, Yasuo


1 正義のアポリア

 デリダは1989年にアメリカで、「法の力:権威の神秘的基礎」と題する講義を行っている。講義は二部に分かれており、第一部はイェシバ大学(ニューヨーク)のカルドーゾ・ロー・スクールで開催されたコロキウム「脱構築と正義の可能性」において、第二部はUCLAでのコロキウム「ナチズムと『最終的解決』」において発表されている(いうまでもなく「最終的解決」Endlosung, final solution とは、1942年のヴァンゼー会議で採択された、ユダヤ人絶滅政策のことである)1。特に第一部の議論は、デリダのテクストが常にそうであるように、多くの論点をめぐって錯綜を極める論述がなされており、安易な要約や論評を許さない。だがここではあえて、「法の脱構築可能性と正義の脱構築不可能性」こそが、第一部の中心的な論点(のひとつ)であると、断言しておくことにしよう。

 いうまでもなく、法と正義は不可分である。われわれが法について語るとき、同時に少なくとも潜在的には、正義について語っているはずである。「実定法を超える正義など存在しない」と主張する論者といえども、その主張自体は実定法を「超える」地点からなされているのであって、われわれはやはりその地点を「正義」と呼びうるのではないか。あるいは「悪法も法である。したがって正義の名によって悪法に逆らうことなど許されない」という議論についても、同じことがいえる。そもそも何らかの正義を踏まえなければ、およそ「悪法」について語りえないのでないか。

 だがその一方でわれわれは、正義についてポジティブに語ろうとするとき、ある種の躊躇を感じずにはおられないようにも思われる。少なくとも社会学者としては、「これこれが正義の内実である」といった言明に対しては、正面からその内容を検討するよりも、むしろそれを知識社会学的研究の対象としたくなるところである。正義の名においては語りうる−−というよりも、常に語ってしまっている−−にもかかわらず、正義については語りえない。あるいは、われわれは正義からの語りかけを受けているが、われわれが正義に語りかけることはできない。正義がもつこの非対称的でネガティブな性格こそが、今日の社会における正義の経験の、根本的前提となっているのである。ラクー=ラバルトの言葉を借りるならば、「いかにして裁くかという問いに答えることは、いまでもおそらく可能であろう。しかし、どこから裁くかという問いに答えることは、きっともはや可能ではないであろう」(Lacoue-Labarthe[1984:60 ])。「裁き」は常に正義の名によってなされる。しかし正義がどこに在り、何であるのかは、不明なままなのである 2

 デリダは『法の力』第一部の終わり近くにおいて、正義が孕んでいる三つのアポリアについて語っている(Derrida [1991:46ff.])。それらのアポリアには、1.規則のエポケー、2.決定不能なものを通しての試練、3.知の地平を閉ざす緊急性、という名前が与えられている。それぞれについて簡単に述べておこう。

1.裁判官が判決を下したり、法規を解釈したりするとき、すでに十分確立されている規則に従っているなら、それはすなわち計算機の作動のごときものであって、自由と責任の意識を欠いているがゆえに、正義の名に値しない。しかし規則に従っていないのであれば、それは単なる恣意の表明にすぎず、やはり正義ではありえない。例えばこのアポリアを回避するために、既存の規則や慣習を(「ハビトゥス」を?)引き合いに出しつつ、正義ではなく合法則性や正統性について語る といったやり方も可能ではある。しかしそれらの規則などの創設の瞬間において、同じ問題が再び登場してくることになる。創設の瞬間においては、問題が暴力的に「解決」され、埋葬され、隠蔽されるのである(国民国家の創設において、典型的に見られるように)。

2.正義が法の姿をとって現れるためには、決定を経由しなければならない。だが決定が正義であるためには、決定不可能なものの経験という試練(Heimsuchung, Prufung)を経験しなければならない。それなしには決定は、プログラミング可能な単なる適用になってしまうだろうから。しかし決定がその試練の経験を通り抜けたときには(通り抜けない限りは、決定を下しえない)、その試練と経験自体は決定から見て過去に属していることになる。かくして現在における決定は再び規則に服するのであり、完全な意味では正義ではありえなくなる。つまり決定不可能なものの経験は、くぐり抜けねばならないが通りすぎてもならないわけだ。決定が生じるとき、そこには常に決定不能なものが、幽霊のように(wie ein Gespenst)内在していなければならないのである 3

3.正しくかつ適切な決定は、常に即座に下されねばならない。十分な情報を入手し検討するだけの時間が与えられているとしても、決定の瞬間においては、無限に広がりうる時間地平を切断しなければならない。これは要件であると同時に、決定を可能にするポジティブな条件でもある。決定が下される瞬間を包む「非−知の夜」は、「非−規則の夜」でもあるのだから。

 以上三つのアポリアに関しても、多様な解釈が(決定が!)可能であろう。ここではこれらを、先に述べた正義のネガティブな特性を構成するひとつのアポリアの現れとして解釈しておきたい。すなわち、正義には潜在的に常に1が随伴しているがゆえに、ポジティブな規定を受け付けえない。正義の名のもとに決定が下される際にはその1が、2として現実化する。そしてそこにおいて登場する(過去/現在の差異という)時間次元のなかでは、1が3のかたちをで現れてくるのである、というように。

 いずれにせよデリダもまた、正義をそのネガティブな特性において考えようとしているのは確かである。「無媒介に、直接的な仕方で正義について語ることはできない。正義を主題化したり、客体化することはできないのである。『これが正義である』と、ましてや『私が正義である』などとは言えない。そう言うとき、すでに正義を、ひいては法を、裏切っていることになるのである」(Derrida[1991:21 ])。ただし、脱構築に対する一部の批判者が考えているように、これは正義について語ること自体がナンセンスであるとか、われわれは正義に依拠して現状を改善することなど諦めて、法の既存の状態に甘んじねばならないといったことを、意味するわけではない。確かに正義は、法や計算には収まりきれない過剰性(他者性)を含んでいる。しかしそれが、法的−政治的闘争から逃避するための口実となるわけではない。「正義は未来に捧げられている。正義が存在しうるのは、出来事として、計算、規則、プログラム、展望などを超える何かが生じる場合のみである。絶対的な他者性の経験としては、正義は叙述不可能である。しかしそこに出来事のチャンスと、歴史の条件が存している」([ibid.:57])。正義の叙述不能性のゆえに、それは既存の法を脱構築するための契機となりうる。ここでの「脱構築」は、体系の非一貫性やそこに内在する多義性を暴露することのみならず、体系を変革し、新たな秩序を成立させる(未来を招き入れる)ことをも意味している。だからこそ、「法が脱構築されうるということは、不幸なことではない。そこに、歴史的進歩の政治的チャンスを認めることができるのである」([ibid.:30])。

 むしろ正義がポジティブに規定されうるとしたら、それもまた脱構築の対象となりうることになる。したがって正義に依拠しつつ「歴史的進歩の政治的チャンス」を捜し求めることはできなくなる。正義は、規定不可能だからこそ、法の変革の契機となる他者性として機能しうるのである。「もし正義といったものが存在するとしても、正義は法の外、法の彼方にあり、脱構築できない」([ibid.:30])4。いわば正義は、われわれを威圧し退ける閉じられた門ではなく、われわれがそこを通って未来へ(別の状態へ)と至りうる、開かれた門である、というわけだ(もし門が閉じられているのであれば、それを打ち破ろうと−−脱構築しようと−−試みることもできるはずである)。しかし、門がわれわれのために造られたいつでも通りうるものであるがゆえにわれわれを拒むのだというのが、カフカの寓話の教訓ではなかったのか?ある意味ではこの点こそが、本稿のテーマであるとも言えるのである。

 この脱構築(=批判)の契機としての正義という観点に依拠しつつ、フェミニズムの立場からルーマンの法システム論を批判しようとしているのが、ドゥルシラ・コーネルである。


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