- ◆執筆当初考えていたこと
- ◆現在考えていること
- 付録:書く予定のフィールドのその後と、今後の方向性
執筆当初考えていたこと
- エスノグラフィであるのは、調査対象者である性同一性障害の人々の経験――生活世界の一部分であっても――を描き出しているから。
そもそも、研究者になろうと思ったのは、フィールドワークを生業にしたいと思ったからでした。
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しかし、そこにとどまらなかったのは、エスノメソドロジーと出会ったから?
どうして、パッシングできているかいないかで、優劣を競い合い、せめぎ合ってしまうのか、なぜ、下位カテゴリーを作り、同様のことをしてしまうのかを考えたとき、そのリソースとなる性別というものがどういうものであるのかを、トピックにしたいと考えたから。
- そもそもフェミニストだという自負があり、ジェンダー研究がしたかった
進学した頃から、性別の社会性を考えたいと思っていたので、フィールドとして性同一性障害のコミュニティを選んだ。もともとエスノメソドロジーとやりたいことの相性がよかった。
- 本書は私がエスノメソドロジーを志ざしながら書きためた論文を、博士論文を書く際に再構成したもの、さらなる書き直しになっている。
そのためエスノメソドロジーという言葉は、最後の最後で一回しか出てこない。
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- しかし、執筆・出版してから『概念分析の社会学』が出版されるまで、自分がエスノメソドロジストであるとは言えなかった。自分がしているものが、エスノメソドロジー研究と言えるのか、確信が持てなかった。
今も自信がないですが、ライフストーリー研究者のようなデータを用いていたため。
今日の論点か。今日で自信をつけたいです。
- 反省点は、インタビューを相互行為として分析する関連の論文を書いたにもかかわらず、話が出た文脈に触れていなかったり、やりとりに注目していなかったりする箇所も多い。
それでもよいと考えたからか、ちょっと思い出せませんが、音声をなくして、荒いトランスクリプトしかない(相互行為として分析することを考える以前に起こした)データもあったせいもある。
執筆当初考えていたこと
- その後、行ったインタビュー調査は、関東地方・関西地方・中部地方の精神科医へのインタビュー(合計、6名。分析した論文死蔵)と、なんちゃってと言われる側に対するインタビュー(関東地方、14名)があり、FtXに関して、論集に寄稿しましたが未出版。第一部の知見は覆らなかった。カウンセリングの録音/録画データの分析とともに、これから分析を進めていきたい。
インタビューにおけるアカウントをデータとすることに関して
浦野(2008)は、出版前に出されていたものですが、恥ずかしながらチェックしておらず、アカウントをデータにすることも、やむなしと思ったり思わなかったりした。そのため、発話を順番に分析することを指向してはいても、一貫してもいない。
浦野
(2008)では、ライルの中傷効果について、
- 「日常的知識を社会生活の認識と扱うこと」
- =「社会学者とその対象者が、ともに社会生活を認識するという同一の活動に携わっているとみなすこと」
- =「認知主義というカテゴリー齟齬」
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方法的知識(knowing how)として日常的知識を取り扱うべき
- しかし、構築主義はそうなってはいない
となっているが、ではメンバーであること
(自然言語の習熟)が、データ分析・記述の担保となりえることはと、どのように関係があるのか、私自身が腑に落ちていない
(ので、ご意見を伺いたい)。
付録: 書く予定のフィールドのその後と、今後の方向性
前提
- GIDの診断に関して、TS・TGという下位カテゴリーが設定された。
- TVそもそもGIDからは外された→現在の「男の娘」「女装男子」
- しかしTVは、生物学的男性に特有のカテゴリーであり、これに相当する生物学的女性のカテゴリーはなかった。
- 性同一性障害であり、正当なFtMとは差異化されるものとして、FtXというカテゴリーが登場した。
- また、そもそもGIDカテゴリーの定義から差異化される形でGIDというカテゴリーが当事者間で使われるようになった。
- GIDカテゴリーの意味内容の変化。同時に下位カテゴリーの変化。
大筋
サブストーリー
- カテゴリーの定義維持のための本質主義「性的指向も性自認も変化しない」
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- 性の多様性を訴えるための「ゆらぎ」
まとめ
- 女/男という性別カテゴリーセットに、「どちらでもない(FtX・MtX)」「クイア」「BOI」などが性別カテゴリーセットに含まれるようになってきている性の多様化の現状
- 以上のような、カテゴリーの変遷を描き出すために、今回取り上げていただいた本も、
時代限定的、ということになっている。また、そのような変遷に地域差があると、後にわ
かったため、地域限定的、ということにもなっている。
- しかし、雑踏で他者を見るということに関しては、そうそうは変わらない。
参考文献