- 「人々を作り上げる」プロジェクトの「哲学的」来歴とはどんなものか、そこでのハッキングの立場である動的唯名論は、どのような哲学的問題に取り組んでいるのか、という点をできるだけ明らかにしたい
- 哲学的来歴
- ネルソン・グッドマンの世界制作論/「有意な種」についての見解
- 動的唯名論はどのような哲学的問題に取り組んでいるのか?
- 唯名論:「個別的なもの」を集めた「種類」は存在しない
- 「種類の名前を使うこと」、
「個別的なものをある種類に分類すること」、
「個別的なものについて帰納推論をすること」、
「個別的なものに関して一般化すること」
の間の根本的関係を、唯名論の立場から解明したい
- それぞれのご関心は様々な皆様の心に、少しでも響くかたちで…
0b. STARTER QUESTIONS
『何が社会的に構成されるのか』と『知の歴史学』を読んでいて、 次のような素朴な疑問を抱きませんでしたか…?
- 「人々を作り上げること」に関する一般的な哲学理論はない。個別の事例が異なれば、それについてのストーリーも違ったものにならざるをえない(『知の』 p. 235)っていうけど、それはなんでなん?
- 人々を分類するカテゴリーと、そこに分類された人々は、手に手をとって同時に出現する(『知の』 p. 223)っていうけど、それはどういうことなん?
- 「無反応 対 相互作用」(『何が』 p. 257)っていうけど、ループ効果が起こる種類とそうでないものって、結局パッキリ分けれるもんなん?
0c. OUTLINE
- 動的唯名論とグッドマンの世界制作論
- 「人々を作り上げること」と「世界を作るいくつもの方法」
- 「帰納の新しい謎」とグッドマンの投射の理論
- ハッキングによる解釈と敷衍
- 自然種(natural kinds)と人間種(human kinds)
- 「自然種」なんてものはない。ただいろいろな種類があるのだ。
- 「自然種」の放棄と「人々を作り上げる」プロジェクト
- ループ効果と動的唯名論: 俯瞰・深化・展開
- 俯瞰:ループ効果の概略
- 深化:動的唯名論は何を明らかにするのか?
- 展開:具体的な実践の中へ
1. 動的唯名論とグッドマンの世界制作論
1-1. 「人々を作り上げること」と「世界を作るいくつもの方法」
- ハッキングがグッドマンについて言っていること
「私の「種類の制作」の考え方は、グッドマンの世界制作の考えに何も付け加えていない」
「グッドマンの「新しい謎」には一般的な解決は存在しない」
「種類の選択に関する一般理論はおそらくありえない」
(『何が』 p. 279-280)
- Making Up People を理解するために、Ways of Worldmaking に目を向けてみるといいのではないだろうか。
1-2 . 「帰納の新しい謎」(cf. Goodman 1983: 『事実・虚構・予言』)とグッドマンの投射の理論
1-2-1. ヒュームの帰納に関する「懐疑論」
-
われわれが行う帰納推論は、いかなる理性的な仕方によっても正当化できず、それはただわれわれの心の習慣にもとづいている
- 日常生活においても科学的活動においても、事実に関するわれわれの知識のほとんどは帰納推論にもとづく。それに確固とした理性的基礎があるわけでなく、心の習慣などという頼りないものに依存している?
- 帰納的信念の形成プロセス(心理学的/記述的説明)
- 経験においてある種の事象Aの生起と別の種の事象Bの生起の間に規則性(恒常的連接関係)を見いだすと、次に A を観測したとき同時に B の生起をも期待するよう心が習慣づけらる。
- 記述的説明を示したってそれは帰納の正当化にはならないぞ!
1-2-2. 「帰納の新しい謎」
- グッドマン:
「いやヒュームは基本的に正しい。帰納はそれより高次の規則によって正当化できるものではない。唯一可能な「正当化」は、妥当な帰納を定義すること、すなわちわれわれがある帰納推論を妥当とみなす条件を記述することだ」
- ただし、習慣を生み出す規則性もあれば生まないものもある。妥当な予測(帰納判断)を記述するには、それゆえ、この区別が何に基づいているかを示さなければならない。
- 述語「grue」の導入
- あるものがグルーであるとは、次のようなときそしてそのときに限る。それが時刻 t 以前に観測されてなおかつグリーンであるか、あるいは、時刻 t より後に観測されてなおかつブルーであるかのどちらかである。
- これまで調べたところ、エメラルドはすべてグリーンだったとしよう。この規則性は、相異なり矛盾する二つの予測を同等に支持してしまう!
1-2-3. 述語の「投射可能性」と「擁護」(cf. Goodman 1983: 『事実・虚構・予言』)
- グリーンはhealthyな述語だがグルーはsickな述語。このような区別をどうつけたらいいか?
- 投射可能性(projectibility):投射可能(予測に使うことのできる)な述語とは、次のような意味で「擁護されている(entrenched)」述語である。
- 「グリーンはグルーより擁護されている」=「グリーンは過去においても多くの予測に使われ、それらの予測は成功してきたが、グルーはそうではない」
- つまり述語の投射可能性は、共同体におけるこれまでの言語使用の履歴によって定義される。
- グリーンがグルーより healthy なのは、グリーンが何らかの意味で実在世界の性質を反映してるからとかじゃなくて、たんに「俺らがこれまで使ってうまくいってたから」ってだけ?ウソでしょ????
※ここらへんのまとめとしては Watanabe(2011)などもぜひご参照ください。
1-3 . ハッキングによる解釈と敷衍
1-3-1. ロックと Right Substances の問題(cf. Hacking 1993)
- ハッキング:「新しい謎」に対するグッドマンの対処法は、基本的に正しい。これまでの言語使用の履歴を越えて、ある述語が別の述語より healthy(より投射可能である)であることを示す一般的な方法はない。
- さらに「新しい謎」は「帰納」だけの問題ではない。実体の観念についてのロックの議論にも、同様の「謎」が潜んでいる。
- gron:時刻 t 以前に観測された金属でなおかつ金であるか、時刻 t より後に観測されてなおかつ鉄である
- gronが正しい実体であるとなぜいえない?
- 名付け、分類、予測、述語づけ、一般化・・・ 「新しい謎」はこれら(別々のものであると考えられがちな)ものの間に存する根本的な関係を示唆している。
1-3-2. 分類と一般化(cf. Hacking 1994)
- ハッキングの解釈する「新しい謎」の核心
- ある種類の名前を使うことと、その種類に属する個体について予測や一般化を行うこととの「対称性(等価性/symmetry)」
- われわれは通常、分類することと一般化することをはっきり区別してしまっている。しかし・・・
「いくつかの事物が互いに似ているように見えたり、それらが同じ種類に属しているように見えるとき、われわれはそれらの事物について現に何かを期待したり、推論したりしようとしている」
「種類の名前を使うことは、予期と一般化を行うということであり、一般化するとは、これまで進化してきた選択を強化することである」
(Hacking 1994, p. 194)
ここでハッキングが言っている「分類と一般化の対称性」を理解するのに、以下1~3の図が役に立つと思います。まず最初に、「対称性」に関するハッキングの主張そのものとは同じではないけれども、それと関係する「何をどのように分類するかは、われわれの「物の見方」に依存する」という主張について考えてみましょう。
まず、図1。この1枚のスライドをひとつの世界、ないしは世界のひとつのヴァージョンと思ってください。それぞれ A, B, … , F という識別記号を付与された6つの縦長の長方形は、この世界に含まれる存在者です(※唯名論的世界観では、個別的なものだけが存在者として認められます。が、その「個別的なもの」とは具体的に言って何なのか、という問題はここでは脇に置いておきます)。それぞれの存在者は、いくつかの性質を持っていたり、持っていなかったりします。いまこの世界をパッと眺めると、「マル」や「シカク」で表現されている性質を持つ存在者たちがいることに気づきます。そこで、「シカクという性質を持っているもの」という分類を考えることにすると、そこにはA, C, Eが含まれることになります。 | 図1
|
次に、この世界にどこからか光があたって、世界の見え方が図2のように変わったとしましょう。先ほどまでは無色だったそれぞれの性質に、「色」がついていたのに気づくわけです。すると今度は、「黄色」で表された性質を共通に持っている存在者をグルーピングして、C, D, Eだけを含むような分類を考えることができます。同じように、「灰色のサンカク」で表された性質に注目すれば、CとDだけを含む分類が可能になります。もちろん、カタチだけに着目すれば、図1の世界でした分類と同じものも、依然として考えることができます。ポイントは、色に着目するかカタチに着目するか(あるいはその両者か)によって、考えることのできる分類の範囲が変わってくるということです。なおグッドマンによれば、このような「着目点の違い」は、「われわれにとって何が有為な種で何がそうでないかの違い」を生み、こうした違いも「世界」の相違となります:
世界が互いに相違するといっても、なかには、そこに含まれた存在者ではなくむしろ強調ないしアクセントが問題であるような相違があり、これらは存在者の相違に劣らず重要である。
(『世界制作の方法』p. 32 [訳書]) | 図2
|
図3では、C, D, Fがそれぞれ持つシカク、サンカク、マルだけ輪郭がボンヤリ見えています。光のあたり方が局所的に変化したのだと思ってください。これなどまさにたんなる「見え方」「強調点」「アクセント」の違いですが、ボンヤリと見えるその見え方によって、これらの性質を持つ存在者をひとつのグループに分類したくなります。しかし「見え方」の違いなんて、「カタチ」や「色」の違いとは異なり、きちんとした分類の基準にはなりえないのではないか?そう思うかもしれません。でも、ここで次のように考えてみてください。これらの図はパワーポイントの機能を使って(手抜きして)描いているので、マルはどれも同じ大きさのマル、黄色はどれも同じ色調の黄色になっています。が、これを全部フリーハンドで、色鉛筆か何かを使って描くとします。すると、それぞれの性質を表す図形のカタチや色は、それぞれ微妙に異なってくるはずです。すると、「マル」を持っている存在者、という分類を考えるには、「何がマルであるか(何をマルと見なすか)」という分類がすでに必要になるのです。すると「カタチの違い」が「たんなる見え方の違い」以上の「きちんとした分類の基準」に思えるのは、すでにそこに、「カタチによる分類」というわれわれが慣れ親しんだ分類のパターンを前提しているからだということが分かります。
| 図3
|
ここで最初のハッキングの主張、「ある種類の名前を使うこと(すなわちあるラベルを使って分類を行うこと)と、その種類に属する個体について予測や一般化を行うことは symmetry だ」に戻ります。図3で存在者A, C, Eを「シカクという性質を持っているもの」と分類するとき、われわれは、(フリーハンドで書いた図を考えると)じっくり見れば色もカタチも大きさも見え方も微妙に異なっているものに、「シカク」というカタチの上での共通性を読み込んでいる、つまり、そのような点での共通性を予期しているのです。さらに、現実の世界はもちろんもっと複雑な姿をしています。もっとたくさんの存在者がいて、それらの各々はもっとたくさんの性質を持っています(ただしある存在者がどのような性質を持っているかという点そのものも、世界の「見え方」や「アクセント」の違いによって変わってきそうです)。そして当然、われわれは世界の全体を、これらの図を見たように俯瞰的に「パッと」見ることはできません。あるていど局所的な視点で、いくつかの存在者をじょじょに閲覧しながら、それらに「共通のもの」をじょじょに予期し、その共通点を基準とした「分類」を作り上げていくのです。この点は調査対象となる集団が厳密に確定できても、同じです。こうした現実の状況を考えるとなおさら、「いくつかの事物が互いに似ているように見えたり、それらが同じ種類に属しているように見えるとき、われわれはそれらの事物について現に何かを期待したり、推論したりしようとしている」というハッキングの主張がよく理解できると思います。
なお以上の説明は、2-2-1で「種類の制作と編成に関するグッドマンの見解から示唆されること」で述べることの理解にも役立つと思うので、合わせてご参照ください。
1-3-3. ハッキングによる述語の「投射可能性」への補足(cf. Hacking 1994)
- グッドマンの「擁護」概念では、述語が投射可能なものとなる条件の「歴史的」「保守的」側面だけが強調されがちだ。
- 過去に使用された回数をたんに数え上げる、という単線的なイメージでは、(クォークなど)新しい概念がなぜ初めからある程度の投射可能性を持つことができるのかが説明しづらいし、そもそも「共同体における言語使用の履歴」の実相を掴むのに適してない。
- 言い換えれば、「擁護されている」ことが投射可能性を含意するとしても、「擁護されていない」ことは投射「不」可能性を含意するわけじゃない。われわれは「何がグルーを投射不可能にするのか」を考えなければならない。でも、どんなアプローチがある?
- それは難しい・・・でも可能性がありそうなのは、「民俗誌(ethnography)」的なアプローチ?
2. 自然種と人間種
2-1. 「自然種」なんてものはない。ただいろいろな種類があるのだ。
2-1-1. 「人々を作り上げる」プロジェクトにおける用語の変遷
- 用語法の変遷
- 初期:自然種(natural kinds)/人間種(human kinds)
- 『何が』の頃:無反応種/相互作用種
- 最近:人間種も相互作用種も(原則)使わない
- 「自然種:バラ色の夜明け、スコラ的な黄昏」
(Hacking 2007a)
- 自然種の典型例と言われてきた様々な個別の種をまとめあげることができるような、ひとつの明確な概念としての「自然種」なるものは存在しない。
- 「人間種(human kinds)」から「人々の種類(kinds of people)」
- 自然種がないなら人間種もない
「分類・人々・制度・知識・専門家の間に起こる相互作用は、ループ効果と人々を作り上げることを説明するにあたって無くてはならない。しかしわざわざ相互作用種や人間種と呼ぶにふさわしい、明確に定義された「人々の分類のタイプ」なんてものはない」」
(Hacking 2007b, p. 293)
2-2-2. それはそんなに重要なことなのか。
- 「相互作用は、ある。しかし他と明確に区別できるクラスとしての相互作用種なんてものは、ない」(同頁)
- じゃあ「人々を作り上げる」プロジェクトにとってはただの用語上の変更で、実質的な影響はない?
- 次のように問うてみよう。
- 「人間種」にせよ「相互作用種」にせよ、「明確に定義されない」ことの何がそんなに困るのか?
- 「自然種/人間種」ないし「無反応種/相互作用種」という対を構成する二項の間にはっきりとした区別がつかないと、誰がどのような理由から困るのか?
2-1-3. 「自然種」なんてものはない。ただいろいろな種類がある。
- ハッキングの主張:There is no such a thing as a natural kind.
- 理由:自然種についての根本的に相容れない理論がたくさんありすぎて、その概念そのものが自壊してしまっているから。
- 「そんなものはどう頑張ってもありえない」という議論をしてるわけではない
- 混乱を招くだけだからソレ使わない方がいいよ、という議論
- 最初はよかったけどだんだんヤバくなった
- 19世紀に J・S・ミル や W・ヒューウェルが哲学の概念として「自然種」を論じ始める。それは確かにいくつもの哲学的問題に光明を投げかける、役に立つ概念であった。すると哲学者たちはいつのまにか、「他と明確に区別でき、人間精神から独立した、自然種というひとつのクラスがある」と想像するようになってしまった…
- 1970年代に「自然種」の典型例と言われていた種
- 虎、レモン、水、金、多発性硬化症、原子、熱、黄色・・・
- こんなもんを全部いっしょくたにできるクラスが明確に定義できると考える方がオカシイだろ?
※[追記] ここでハッキングは、「虎」や「レモン」といった個々の種(kinds)が存在しない、と言っているわけではない。そうではなく、それら様々な種をさらに高次の視点からグループ分けする、いわば "meta-kind"としての「自然種」なるものが存在しないと言っているのである。
2-2. 「自然種」の放棄と「人々を作り上げる」プロジェクト
2-2-1. 「自然種/人間種」の放棄でむしろ原点回帰
- よくあるハッキング批判:ループ効果は人間以外の生物にも生じる!
- Douglas(1986):われわれは細菌についての知識に基づいて抗菌剤を作る。細菌は抗菌剤に耐えられるよう進化する。すると細菌についてのわれわれの知識も変わる。これってループ効果でしょ?
- ハッキング:いや、細菌は人間の働きを意識してるわけじゃないから、細菌という分類は無反応種です(『何が』 pp. 241-2)。
- 「自然種/人間種」が明確に区別できるなんて、そもそもあんまり興味なかったし、たぶんそんなこと言ってないです。
- 「自然種/人間種」の放棄で立ち戻ることのできる、「人々を作り上げる」プロジェクトの本来の方向性
「どんなにうまく事例を選んだとしても、それは、せいぜいあるグループの種類を理解するための手引きとして役に立つに過ぎないであろう。すべての種類のモデルであることを目指すべきではない。モットーは「多種多様」である」
(『何が』 p. 285)
- 種類の制作と編成に関するグッドマンの見解から示唆されること:いろいろな種類がそれぞれ様々な目的や関心に照らして有意なものになるという事実を越えて、さらに何らかの一般的な方法を求めることはできない
- 二つの世界が全く同じ種のクラスを持っていたとしても、そうした種のうちのどれが有意な種に分類されているかが、それらの世界に重要な相違をもたらす。
- そうであるなら、ある「人間の種類」がいかに生まれ(有意な種となり)、また消えていく(有意でなくなる)かについての研究は、ある世界が別の異なる世界に変わる仕方の研究でもある。
- しかし、そのように異なるいくつもの世界をすべて通覧できるような、ひとつの特別な世界は存在しない(たくさんの世界=バージョンがあるといっても、それらはひとつの「特別な世界」に還元したり翻訳したりできるようなものではない)。
- 世界の変容、すなわちそこに含まれる有意な種の制作・編成については、「個別具体的」に見ていくより他ない。
- 「人々を作り上げることに関しては、個別の事例が異なれば、それらについての物語も違ったものにならざるをえない」(『知の』 p. 235)
2-2-2. 「自然種/人間種」の区別がつかないと困るのは誰か?
- 「自然種/人間種」にせよ「無反応種/相互作用種」にせよ、これらの間の区別が「厳密には成り立たない」と誰がどのような理由で困るのだろうか。
- それは、あるていど強い実在論的傾向を持った人々。
- 自然種という概念には、典型的には科学におけるわれわれの分類活動を実在論的に説明したいという要求にうまくフィットする、という長所がある。
- [そのような説明]
- まず経験世界に目を向け、ある特定の諸性質が個物に同時に生じていることを観察し、とりわけ顕著な性質の一群を「種」ないし「自然種」と同定する。
- 次に、これらの自然種と何らかのラベルないし述語とを結びつけ、そうしたラベルに合うよう個物や現象を分類する。
- さらにこれらの自然種を説明や帰納的推論に用いることで、その種についての未知の事実を発見したり、新しい信念を得たりすることができる。
- 「まず種類を選び、それから帰納(や一般化など)をする」という図式!
- ただし実在論者としても、「われわれが扱う種類はなにもかも、人間精神から独立に存在する世界の側の有り様をそのまま反映している」とまでは言う必要はない。彼らとしてもその多くは「われわれの扱う「種」に二つのタイプのものがあってもいいではないか」と言うまでには寛容になれるだろう。
- しかしそう言ったうちの少なからぬ者が、すぐ次のように付け足そうとするだろう。「ただし、両者を混同しさえしなければ」。
- 問題になるのはこの点。種には自然種と人間種という二つのタイプがあり、両者の区別を明確に引くことができない場合、次のような「不安」が生じる。
- 「いずれのタイプに関しても、それに属する個別の種にはどんなものがありうるか、その可能性の範囲を予めきちんと知っておくことができない」
- 「いつかそのうち、どちらのタイプのものなのかが決められない種に出会うかもしれない」
- ハッキングも自身の「実在論的傾向」を認めていた。
「私の考えでは、多くのカテゴリーは人間の精神ではなく、自然のうちにその起源をもつ [・・・] 私はある意味で実在論者である」
(『知の』 p. 222)
- これが「自然種」概念を放棄するのに長い時間がかかった理由?
- しかし、「ウマ」と「多重人格」は違うのだ、という直観を守るために「ウマが硫黄や金や黄色や熱までもと一緒に含まれる明確に定義されたクラスが存在する」とまで主張する必要があるか?
- 「ある分類は他の分類より自然である」と主張するための根拠は別に用意する必要がある。が、それは自然種という「明確に定義できるクラス」があろうがなかろうが、いずれにせよやらなければいけないこと。
3. ループ効果と動的唯名論:俯瞰・深化・展開
3-1. 俯瞰:ループ効果の概略
3-1-1. ループ効果とは?
- われわれ(典型的には社会科学者や官僚など、それぞれの専門的関心から人間集団を俯瞰的に眺める立場の者)が、なんらかの特徴を共有しているように思われる人々に名前を与え、その人々を種類に分類しようとするとき、そこに分類された人々の自己認識や行動様式に変化をもたらすことがある。
- さらにそのようにしてもたらされた変化が、逆に、当の「人間の種類」の書き換えを促すこともある。
- このように、「分類するもの→分類されたもの」への影響と「分類されたもの→分類するもの」への影響が環をなすように生じることから、ハッキングはこれらの間の相互作用を指して「ループ効果(looping effect)」と呼ぶ。
- 具体例:同性愛、多重人格、児童虐待、自閉症など
3-1-2. ループの半分(1):「分類するもの」から「分類されたもの」へ
- 名づけと分類
- 人間の分類の仕方、人間の「種類」は多様であり得る。しかしハッキングが特に関心を持って論じるのは(したがってループ効果という概念を通してその解明がとくに期待されるのも)、科学的知識(ないし専門的知識)の対象となる「人間の種類」だ。
- 児童虐待という概念は、それが提示された当初から現在に至るまで、まず「科学的」概念と想定されてきた(Hacking 1995)。専門家たちは児童虐待という問題を解決し、苦しむ人々を助けるため、どのような人々がどのような条件の下にどのような虐待に及ぶのかを記述し、虐待が発生する原因を突き止め、今後発生するかもしれない虐待を予測・予防しようとするのである。
- 分類の影響
- ではなぜ、人々を「分類」し、その特徴を記述しようとすることが、人々の有り様さえも変えることができるのか?
- ハッキングによれば、この作用の生起には「ありとあらゆる理由がある」が、重要なものとしては以下の三つの理由が挙げられる(『何が』 pp. 72-4)
- 分類された人々の自己認識の仕方が変わり、それがかれらの行動に影響を及ぼすから
- われわれが選びうる行為の範囲は、どのような行為を記述しうるか、つまり行為を記述する可能な仕方の範囲に依存する。それゆえ、自分がある種類の人間であることを知らされ、またその種類の人間に典型的な振る舞いについて専門家たちが述べている様々な事柄を知ることは、その個人にとって取りうる行為の範囲が変化することになるから
- 分類は、(言葉の上だけでなく)実際の様々な制度や慣習、他人との相互作用の中で遂行される作業であり、分類される人々は、こうした複雑なマトリックスの中で現実的な力を受けるから
- 分類の道徳的含意(moral connotation)
-
「社会科学に出てくる種類の多くは逸脱の種類であって、典型的には、人間がその種類に属するのが望ましくないがゆえに興味をそそるような種類である」
(『何が』 p. 284)
- 専門家たちが人々を分類するあらたなカテゴリーを考案するとき彼らの視線の先には特定の社会的文脈において「解決すべき問題」があり、それらは多くの場合、ネガティヴな評価を帯びている。
3-1-3. ループの半分(2):「分類されたもの」から「分類するもの」へ
- 行為の記述の範囲が変わると、とりうる可能な行為の範囲が変化する。なんらかの「人間の種類」を指す萌芽的な観念とその暫定的な説明が専門家によって提示されると、ある人々は自らの経験のうちに、かれらの記述にフィットするものを見いだし、実際にそのように行為することもある。
- そしてそのような人々が増えるにつれ、その種類の特徴と見なされる記述もある場合には強化され、また別の場合には多様化する結果、専門家たちは当初の分類に変更を加えることになる。これは人間について専門家が言うことを人々が受動的に受け入れた場合に起こるタイプのフィードバックといえる。
- しかし別のタイプのフィードバックもある。既に言及したように、人間の分類の多くはしばしばマイナスの価値を背負っている。それゆえそこに分類された人々が、専門家が押し付けてくる区分とその記述に変更を要求するという場合もある。同性愛は当初、治癒されるべき逸脱として精神医療の文脈で扱われていたけれども、同性愛者たちはゲイ・リベレーション運動を通してその観念を大きく変えることに成功した。
3-2. 深化:動的唯名論で何が明らかになるのか?
3-2-1.榊原さんからいただいた事前質問
動的唯名論が適用される概念というのは、記述的な側面と評価的な側面(あるいは descriptive な 側面と prescriptive な側面)を併せ持つ概念と考えてよいか?
- 質問の意図: ほぼ純粋に記述的な意味しか持たない概念(背が高い人、黒髪の人、目が細い人など)や、ほぼ純粋に評価的な意味しか持たない概念(悪人、すばらしい人)というのはその意味が記述的内容、あるいは評価的内容によって固定されており「動的」な特徴を持たないように思われる。動的唯名論が適用される概念というのは、記述的内容を持ちながらプラスの価値を帯びていて、人々がその概念の外延の中に入ろうとするインセンティブを持ったり、マイナスの価値を帯びていて、人々がその概念の外延から外れようとするインセンティブを持っていたりする概念のことである、と考えてよいか。
- 動的唯名論を、「人々を作り上げること」および「歴史的存在論」におけるハッキングの関心に注目して、あくまでそれらを背景として考えると...
- ループ効果が顕著に観察され、それゆえハッキングが関心をもって採り上げるような「人々を作り上げること」の典型的事例は、「記述的側面と評価的側面を併せ持つ概念」である。きわめて多様でありうる「人々の種類」の中でも、ハッキングがとくに関心を持っていたのは、社会科学者など「専門家」が考案する「科学的」概念が、それを用いて分類される人々との間に生じうる相互的影響関係であった。そして、社会学者が専門的関心を持つ人々の種類は、典型的には価値を背負ったものである
- 一種の「限界事例」として「ほぼ純粋に記述的 [or 価値的]意味しかもたない」概念を検討してみると・・・
- すぐに気づくのは、ほぼ純粋に「記述的/規範的」意味しか持たない、人間の種類についての概念の現実的な例を見つけることが、すでに難しいということ。
- 「背が高い人、黒髪の人、目が細い人」:ほぼ純粋に記述的か?
- 仮に概念そのものに評価的な意味が含まれなかったとしても、それが特定の「社会的状況(social settings)」の中では何らかの道徳的含意(moral connotation)を帯びるということは普通にある。
- 「悪人・すばらしい人」も、それが評価的概念として意味を持ちうる社会の中で使われるのならば、やはりなにがしかの記述的内容を持っているか、代表的な個別事例と結びついているはずだ。
- このようなことを考え合わせても、やはり、ループ効果のダイナミズムを生み出すのは、「記述的側面と評価的側面を併せ持つ概念」であると言えるのではないだろうか。
- 「児童虐待」の例についての以下の引用が参考になりそう (『知の』 pp. 156-8)
… いま提案しているような研究の方向性のもとで、倫理的な概念はどう扱われるだろうか? … 児童虐待は、単なる反道徳的な行いではない。それは現在では、絶対的な不正である。... ここにあるのは、「絶対的な価値」が、明白な絶対的不正が、われわれの目の前で構成される過程の生きた実例なのである。
… 児童虐待は、人間の種類を記述しかつ評価する、事実と価値が一緒くたになった概念である。... 児童虐待は価値評価を含んでおり、まさにそれゆえに、クォークの場合とはまったく違った仕方で、その研究者に影響を与える。研究者がその主題自体に巻き込まれてしまうのである。[このように、児童虐待の問題は、内在的には道徳のトピックとなる。しかし同時に、外在的にはメタ道徳的なトピックにもなる。すなわち児童虐待の問題は、ある価値を相対化してみること、価値評価それ自体についての反省をも促す。]
… そうした反省を行うには、われわれの観念の起源を調べるしかない[(ロック命法)]。... ただし調べるのは、個人ではなく社会全体の中での概念の形成である。[それはいわゆる「現在の歴史」を巻き込む。] ... われわれの現在の考え方はいかにして作られたのか、その概念を形成した条件は現在のわれわれのものの見方をどのように制約しているのかについての歴史である。こうした営み全体によって、概念が形成される。
- 引用の後半で言われているような、「ロック命法の遂行(観念の起源を調べる)」というかたちで進められる外在的なメタ道徳的探求のモデルとして、ハッキングは『監獄の誕生』などにおけるフーコーの仕事を挙げている(同 p. 158)。
- そのような「概念の価値的側面に関する探求」と並置されるのは?
- 「概念の記述的側面に関する探求」、つまりメタ認識論的探求。
- ループ効果を生む仕組みのひとつである「可能な記述の範囲の変化と可能な意図的行為の範囲の変化との論理的関係」を介して、現在のわれわれのあり様を制約している条件を明らかにしていく。
3-2-2. 動的唯名論は「記述」と「価値」の何に目を向けるのか
- これら概念の価値的側面と記述的側面の両者の探求に関わり、ハッキングが動的唯名論でもって捉えようとしているものを、ひとくちに表現すると?
- 「ある人物であること」の可能性の空間自体の変容
動的唯名論は、個人という概念にいかなる影響を与えるだろうか。「可能性」という観点から、一つの答えを与えることができる。われわれが何者であるかという問いは、われわれがこれまでにしてきたこと、今していること、これからすることのみを問うているのではなく、われわれが過去に何をしえたとか、今そしてこれから何ができるかをも問うているのである。「人々を作り上げること」によって、「ある人物であること」の可能性の空間自体が変容するのだ。 (『知の』 p. 223)
- もういちど次のように問うてみよう。
- ハッキングは「人々を作り上げること」というプロジェクトで、何を明らかにしようとしているのだろうか?
- 以上の考察を踏まえたうえでの簡潔な答え
- そこで試みられているのは、人々を分類する概念が、「ある人物であること」の可能性の空間自体にもたらす変容を、その概念の起源を記述的・価値的側面双方から調べることによって明らかすること、これである。
3-3. 展開:具体的な実践の中へ
- 重要なのは、そこで掘り起こされるべき記述や価値が、われわれの実践や生活に埋め込まれているということ。
- 浦野報告の概要にもあったように、そうした「概念は具体的な実践の中でその他の様々な概念と結びつけられて人々に理解可能なものになっている」。
- 浦野報告では、「自閉症」の概念をそのような具体的実践の中で捉え、それが人々と相互作用する仕方が検討される。最後に、そのような浦野報告の企図の意義を、本報告でおこなった動的唯名論についての考察結果から簡単に説明し、バトンタッチとしたい。
浦野報告へのバトンタッチ
- 小児自閉症を特徴づける典型的な症状として、コミュニケーション・意思伝達における障害、また心の理論の欠落などある種の知的能力における障害を挙げることができるだろう。
- ここで問題になるのは、もし自閉症がそのようなものであるなら、自閉症児たちが「自閉症」という概念を知り、その「記述的内容」と「価値的内容」を踏まえて自らのあり方を変えたり、自閉症児たちがそうした内容の変更を迫ったりするということは、起こらないのではないか、すると「自閉症」という概念はループ効果の事例としてそぐわないのではないか、ということだ。
- しかしハッキングは、次の点を指摘し、本報告で見た概略よりも複雑なかたちでのループ効果の存在を示唆している(『何が』p. 256-7)
- 自閉症の子供たちも「独自の仕方で気づき、反省する」し、
- 自閉症という分類と相互作用するのは、個々の自閉症の子供だけでなく、家族など周囲の人も含まれる
- このうちとくに、「分類する人」「分類される人」以外の、「その周りにいる他の人々」がループ効果に及ぼす影響については、この自閉症の事例を離れて一般的にもおそらく重要な関心事となる。
- ここ10年ほど道徳心理学および実験哲学の分野で話題になっているものに「ノーブ効果(Knobe effect)」という経験的知見があり、これが近年、ループ効果のキータームのひとつであった「意図的行為」に関する哲学的な再検討を促している。
- ノーブ効果の教えるところによれば、ある人の行為が意図的なものか否かについてのわれわれの判断は、われわれがその行為の帰結を道徳的によいと見なすか悪いと見なすかに一定の程度依存する。するとこのことは、「分類する人」「分類される人」「その周りにいる人」が、意図的行為とそれらの道徳的評価の「可能性の空間」を巡って織りなす、より複雑な関係を示唆している。
- このこと自体の検討はもちろん、本日のシンポジウムでなされる課題の範囲を大きく超えている。
- しかし、これから浦野報告でなされるような自閉症概念を巡るより実践的で具体的な検討が、さらに一般的・哲学的な問いへとつながっていくことは、「人々を作り上げること」が哲学的・思想的研究と社会学的・実践的研究がオーバーラップする領域であるということをそのまま示唆している。
ハッキングの著作
- (1999) The Social Construction of What?, Harvard University Press =(2006)『何が社会的に構成されるのか』(『何が』と略記, 参照の頁は訳書), 岩波書店.
- (2002), Historical Ontology, Harvard University Press =(2012)『知の歴史学』(『知の』と略記, 参照の頁は訳書), 岩波書店.
- (1993) “Goodman’s New Riddle is Pre-Humian.” Revue Internationale De Philosophie 47 (185): 229-243.
- (1994) “Entrenchment.” In Grue, edited by D. Stalker, 183-224. Open Court.
- (2007a) “Natural Kinds: Rosy Dawn, Scholastic Twilight.” Royal Institute of Philosophy Supplements 61: 203.
- (2007b) “Kinds of people: Moving targets,” Proceedings of the British Academy 151, 285-318.
グッドマンの著作
- (1983) Fact, Fiction and Forecast, Harvard University Press =(1987) 『事実・虚構・予言』, 勁草書房.
- (1978) Ways of Worldmaking, Hackett Pub. Co. =(2008) 『世界制作の方法』, 筑摩書房.
その他
- Cooper, R. (2004) “Why Hacking is Wrong about Human Kinds,” British Journal for the Philosophy of Science 55: 73-85.
- Douglas, M. (1986) How Institutions Think, Syracuse University Press.
- Khalidi, M. A.(2010) “Interactive Kinds,” British Journal for the Philosophy of Science 61, 335-360
- Watanabe, K. (2011) “On Goodman's Reading of Hume: The Old Problem, The New Riddle, and Higher-Order Generalizations,” 哲学論叢 38: 73-84.