エスノメソドロジー |
ルーマン |
研究会 |
馬場靖雄論文書庫 |
そのほか |
告知文 | ||
訳者 | 馬場靖雄(社会学、大東文化大学 教員) | |
評者 | 加藤哲理さん(名古屋大学/政治思想史) | |
評者 | 奥田太郎さん(南山大学/倫理学) | (←これ) |
記録 | 当日のディスカッションの一部 |
このコーナーには、2015年10月12日に大東文化会館にて開催した、ニクラス・ルーマン『社会の道徳』合評会 の配布資料や議論の模様を掲載しています。
デュルケムがアダム・スミスを引用するのは道徳理論家としてではなく、分業の利点に関する学説の、有名な提唱者としてである。この点が、彼の問題視角とその理論の離陸点(take off)とを特徴づけている。デュルケムは少なくとも本書では回顧的な姿勢で、〔従来の〕社会理論は分業と契約の理論であったと見なしている。彼がこの理論と決別するのはそれが功利主義的であり個人の利得計算に基づいていたからであって、分業の理論であったからではない。社会学は分業の理論の内部において、この現象を純粋に個人主義的・経済的に導出しようとする試みに対して論戦を挑む可能性を見いだす。それによって社会学的な理論アプローチが獲得される。経済的・功利主義的な古典との関係における理論史的一貫性を放棄することによって、社会学という分野の独自性が確立されたわけである。
(3-4頁)
…結合可能な不等性こそが(単なる感情の強度などが、ではなく)、連帯の基礎となる。連帯は、常に個々の人間の体験と行為の中でしか現実化されないにもかかわらず、そこから独立した独自の基準を有する。したがって、連帯を増幅する可能性が心理的なものに対応している必要も、なくなるのである。だとすればさらに、こう述べることもできる。分業の増大は連帯の増大と相関する。また増大に伴って連帯の形式は同等性から不等性へと転換されねばならなくなるのである、と。/道徳に関して言えばこの事態が意味するのは、個体性が解き放たれ、他者の他者性への定位が生じてくるということである。したがって、道徳は、同一でないものの同一性として(単なる主体の自己実現としてではなく)要求されることになるが、この議論は完全にアダム・スミスの理論プログラムの延長線上に位置している。そこでは、行動選択における個体性と自由とは、派生的現象にすぎない。それらは集合意識が、かつては人間たちの連帯を可能にしていた同等性のうちにもはや基盤を求めることができなくなったことから生じた、言わば応急措置として登場してきたのである。
(6-7頁)
存在するのは、学ぶかそれとも学ばないかという、この二つの反応可能性のみであるからこそ、当該の区別は一義的に定義されうる。「存在と当為」という、存在論的なものにまで絶対化された二分法の根底にあるのは、またその完全性を証しているのは、この区別なのである。第三のタイプは存在しない。…生きるということは世界を継続的に再構成していくことなのである。…純粋に規範的な、あるいは純粋に認知的な予期からは、大きなリスクが生じてくる。すなわち、現時点では未知の状況のために他方の処置可能性を保持しておくことが、最初からできなくなってしまうのである。…認知的予期と規範的予期の分化(それは存在と当為の分離によって象徴される)は進化上の達成物であり、かなりの程度複雑な社会においてのみ必要とされ、形成されるものであるように思われる。
(33頁)
規範はそれ自体として、あらかじめ統合された、整合的な範型の中で生じてくるわけではない。規範への需要はあまりにも大きく、状況はあまりにも多種多様であり移り変わっていくので、生活世界的な日常行動というこの水準において統合を可能にすることなどとてもできないのである。複雑性の乏しい全体社会においてもすでに、関与者すべてを同一の予期によって規律づけることは排除されていた。ましてやそれ以降の発展すべては、全体社会の中で規範的予期の十分な多様性が与えられ、構造的に̶例えば社会分化によって̶可能になっているということに存する。したがって、ある人の規範が他の人の予期外れと化すという事態が、常にくり返し生じてくるのである。
(39-40頁)
システム理論がその分析的可能性を完全に発揮するためには、社会システムとパーソナル・システムを相異なるシステム言及として区別しなければならない。そして、両者が互いに対して環境たらざるをえないという点から出発しなければならないのである。したがって個々の具体的な人間は、どの社会システムにとっても常に環境である。全体社会システムにとってもやはりそうである。個々の人間は何らかの社会システムの中で働くわけだが、その社会システムすべても人間にとっては環境なのである。」(80頁)「社会科学によって突き付けられた要求に反応しつつ、システム理論は次の点から出発する。自己言及は対象の持つ構造であって、認識関係の主体の側にではなく、他ならぬ客体の側に位置づけられるべきである。認識過程の再帰性だけが、認識を認識する可能性だけが、認識する者自身をも自己言及として現象せしめる。しかしそれは認識過程が、認識することへと向けられた認識過程の対象となる限りでのことなのである。主体は認識理論の対象となる場合に初めて、反省を帰することのできる何ものかとなる。/この転換を通して、超越的なものないし超越論的なものへと至る道を回避しつつ一般化を行うことが可能になる。自身が認識しているということを認識する、認識を行うシステム。このシステムという事例に則して、一つのきわめて一般的な問題をきわめてうまく研究できる。
(92-93頁)
自我〔であるA〕を〔相手Bにとっての〕他者として、また他我として、他者〔であるB〕の視角と自己同定に受け入れ可能なかたちで組みこむための指標として役立つのは、尊敬(Achtung)の表明であり、相互に尊敬しあうための条件についてのコミュニケーションである。自我は、自分自身を他者のうちでの他者として再発見し再認識して、それを受け入れうる場合に、あるいはその明白な見込みを有すると考える場合に、〔要するに他者が自我を正当に扱っていると見なしうる場合に、〕他者を尊敬し他者に尊敬を示す。つまり尊敬はコミュニケーション過程の中で、根底にあるきわめて複雑な事態を現す略語として働く。
(101頁)
道徳もまた、これまで詳細に論じてきたように、全体社会という社会システムの中で一つの特殊な機能を有している。にもかかわらず道徳は、全体社会の部分システムとしては分出しえないのである。道徳の機能はそうなるには深く入り込みすぎている。……道徳を社会から抜き出すわけにはいかないのである。
(152頁)
社会道徳とは、共有された感受性のなかで、また、それによってそれ自体永続化される歴史的に培われてきた慣習制度のなかで、実現されたり、具体化されたりするものとして(あるいは、実現されうるもの、具体化されうるものとして)のみ存在するものである。この種のことに参加し、互いをそのように参加する者だとみなすことによってのみ、実際の普通の人間たちは、共通の関心事や共通の目標を抱くことができる。
(ウィギンズ、42頁)
ここで考えられている社会道徳は、あたかもわれわれが選択して参入したり契約して参入したりしたかのようにあるものですらない。それは、端的に、われわれがいつの間にかその只中にある類のものである。社会道徳は、それがそういうものであり、現に有するような内容を有しており、および、そのなかで生きる者たちのコンセンサスを得るに値するがゆえに、その追従者に対して、自ら選択してそこから離脱するために適正に公言可能な理由とみなされなければならなくなってしまうようなものを与えないようなものである。
(45頁)
単に道徳原則であるための形式的制約をみたしさえすれば、どんな古めかしい原則でも社会道徳だ、ということにはならない。社会道徳は、それを具体化し、制約し、存続させるような、歴史的所与である現実の慣習や制度のなかで実現され、具体化されるものとしてのみ存在しうるのであり、そういった社会道徳が今度は慣習や制度を維持し、精査し、調整し、存続させるのである。
(106頁)
倫理学というものが、道徳的コミュニケーションの反省理論であろうとする以上、今日では《主体》の存命中とは異なる問題を解決しなければならないという点は見て取れる。しかし、道徳の区別のパラドックスを展開するどんな形式が、倫理学として提案されうるかは、見て取れないのである。さらにまた、〔道徳が機能システムを形成することはないという〕この問題の独自性のための感覚が欠落してもいる。
(第五章、198頁)
はたして倫理学は、今世紀末の全体社会の状況に適切に反応しうる理論形式なのだろうか。倫理ファンの善意の中には、悪しき(schlimm)帰結が潜んでいるかもしれない。すなわち、近代の全体社会を、またその中にある経済という機能システムを把握しようとするあらゆる真剣な試みが蔑ろにされてしまうという帰結が、である。
(第六章、209頁)
…道徳の反省理論はこれまで通り理論のあり方を倫理学的に決め続けることしかできないと言っているわけではないし、まして道徳の反省理論など不可能だと言っているわけでもない。問題は、(システム理論的に論じるなら)システム準拠にこそあるのである。道徳の反省理論--これを《倫理学》と言い続けてもかまわないが--は、部分システムを基礎に発達させることはできず、社会の理論を基礎にするしかない。この種の理論の輪郭すら見えてこない状況では、道徳という対象については、十分に説明することができず困惑するような出来事が思いがけなく生じてくることを考慮に入れておかねばならない。その場合、道徳についての言説はその対象から適切な距離が取れず、できるのは対抗的な道徳を主張することだけになってしまう。…/道徳的判断の基礎づけの問題ではなく、道徳のコードの使用について反省することこそが、倫理学の問題だとするならば、倫理学自身は道徳化されない(…)観察者の立場を取ることになる。人がその原理から逸脱してしまう様子を観察したとき、倫理学は何と言うべきだろうか。…いずれにせよ、倫理学は道徳のコード全体を受け持たなければならない。つまり、軽蔑のコミュニケーションがもたらす帰結をも考慮に入れておかなければならないのである。
(「道徳の反省理論としての倫理学」『社会構造とゼマンティク3』398-399頁)