1.問題設定 2.〈68年〉の諸相 3.ルーマンの〈68年〉 4.「文化左翼」批判とその陥穽 |
5.市民主体 6.機能分化と自由に関する覚え書き 7.結語 |
◇.注 ◇.文献 |
【注記】
*2001年5月26日、関西社会学会第52回大会(桃山学院大学)での報告原稿。
ただし実際の報告は4節まで。5節以下は、今後の展開を示唆するためのメモ。この部分は拡充の上、今秋の日本社会学会にて報告予定(→)。
68年に世界規模で生じたあの動向を〈革命〉などと呼んでいいものかどうか、あるいはそこまでいかないまでも、ともかくもひとつのターニングポイントであったのかどうか、完全な当事者でなかった報告者には判断できない。それは、前世紀最後の30年で生じた社会の変化をどう評価するかとも関わってくるはずだ。しかしその点に関する判断を保留したままでも、68年をめぐる何人かの理論家の発言をフォローし比較することを通して、彼らの現代社会に対する視角を逆照射することはできるだろう。
本報告の目的は、この作業をルーマンに関して試みること、すなわちルーマンの〈68年〉論を通して、「機能分化社会としての近代社会」という論点の射程を探ることにある。この論点はあまりにも常識的に見えるがゆえに、かえってその含意が真剣に検討されないままに留まっているのではないだろうか。
それゆえに本報告は──残念ながらタイトルから連想されるところとは異なって──、「68年をいかに捉えるべきか」「今なぜ68年なのか」などの問いに明示的に答えようとするものではないということをお断りしておく。