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ルーマンの68年

馬場靖雄

2:〈68年〉の諸相

 まず最初に、何人かの社会学者/哲学者による、〈68年〉に関する議論をフォローしておこう。

 周知のようにパーソンズはあの経験を契機として、大学論であると同時に文化論でもある大著 The American Universities を上梓したが、そこでの分析はもっぱら教育革命を背景としつつ、大学という特殊セクターにおいて通用しているシンボリック・メディア(知性)のインフレ/デフレという観点からのものに限定されている(高城 1989, 234-256 を参照)。むろんその背後には、産業革命・民主主義革命と並ぶ近代化の第三のモメントとしての教育革命という、より広範囲に及ぶ問題関心が控えていたのではあるが。

 一方ダーレンドルフにとって68年は、単に大学というセクションに留まらず、より広い社会的コンテクストにまたがる意義をもった出来事であった。Dahrendorf 1992=2001 は近代社会を、豊かな生産力を通して人々の選択可能性を高める供給(provision)と、生活に必要な(物質的および非物質的な)資源を実際に入手する権利としての請求権(entitlement−−これはもちろんセンの概念を参考にしている)の並行的展開過程として描き出している。古典的な資本主義社会は供給を増大させたが、請求権に関しては無配慮であった。一方社会主義社会では請求権は万人に等しく保証されたが、十分な供給を伴わなかったためにそれは実質的に無意味であった、というように。ダーレンドルフによれば68年に生じたのは、というよりも〈68年〉が象徴しているのは、潤沢な供給と自由を備えた社会において、万人に等しく請求権を付与せよとの要求がかつてないほど高まったという事態だった。大学に象徴されるあらゆる権威に対して批判の刃が向けられ、マイノリティへの公民権付与が、単に形式的な容認のレベルを超えて、実質的なレベルにおいて実現されるよう要求がなされる。そしてこの要求は現に多くの国々において実現された。しかしそれは同時に、もはや請求権の要求が「希望の原理」としては機能しなくなるということでもあった。

大きな社会的諸勢力はそれが勝利した瞬間に死ぬ。未来がもう味方につかなくなると、終焉に近づくのである。……1968年は社会民主主義の大勝利を象徴する。しかし同時に、終わりの始まりを意味していた。多数派階級の支配、きわめて理性的な社会民主主義の合意の支配が不安定なことが明らかになった。(Dahrendorf 1992=2001, 188

われわれはここで、この社会民主主義の勝利と終焉が、「政治」の終焉と勝利でもあったということを確認しておくことにしよう。〈68年〉が「政治」の終焉であったのは、それが「分子革命」、すなわちマクロ政治学(伝統的な意味での「政治」)からミクロ政治学への転換を生ぜしめたからである。マイノリティの権利回復運動のなかで明らかにされたように、今や「個人的なこと」を含めたあらゆるものが政治的であり、社会のあらゆる作動には権力が浸透していると見なされる。だとすればことさら「政治」について語る意味はないのではないか。ルーマンに言わせれば、〈68年〉がもたらしたのは、「知性」ならぬ権力というシンボリック・メディアのインフレ(Luhmann 1987, 125)であったということになるだろう。

 一方それは同時に「政治」の勝利をも意味していた。「社会民主主義の大勝利」によって生じた請求権の肥大化は、福祉国家が生活の隅々にまで浸透してくるという事態をも招来したからだ。だからこそ「大勝利」以降において福祉国家の介入的性格や、それに伴う社会生活の「法化」への批判といった議論が巻き起こってきたのである(Habermas 1986, 147-149(1)

 われわれは近年〈68年〉を語る際には欠くべからざる言及対象となっているフェリー=ルノーの議論をも、この「『政治』の終焉と勝利」という観点から捉えておくことにしたい。周知のように Ferry/ Renaut 1985=1998 は、「68年の思想が主体に対して行った訴訟」(Ferry/ Renaut 1985=1998, 40)の不毛さを、辛辣に逆告発しようとしている。しかしここではその批判の内容に立ち入るよりも、その後二人が世に問うた補遺的な小論(Ferry/Renaut 1987=2000)に即して、68年思想が現実の社会に与えたインパクトを彼らがどう評価しているかのほうに注目してみよう。

 フェリー=ルノーにとって〈68年5月〉は、政治的であると同時に非政治的な運動であった。なるほどそこでは社会的自立を求める批判的要求が提出され、それを阻む制度などに対する激しい攻撃が行われた。その点で68年は1789年の延長線上にあるように見える。しかし両者の間には決定的な断絶が存在する。1789年においては既存の秩序への反抗は、共和国という理想的政治秩序を確立するための手段であり一里塚にすぎなかった。しかし68年では反抗の準拠点は集合的に共有された理想にではなく、あくまでバラバラの個人のうちに見いだされていた。あるいはむしろ、個人のなかに常に共存している複数の無整合な欲望のうちに、と言うべきかもしれない。それらの欲望を全面的に解き放つことこそが真の「政治」である、と。

 したがって68年という〈夏〉が過ぎた後にやってきた、無関心で冷淡な個人主義が蔓延する80年代の〈冬〉(政治の終焉)は、敗北による転向・逃避を意味しない。むしろそれは、68年の正統な子孫なのである。

 〈5月〉の本質は社会的自律性を求める批判的要求に存するのであって、その自律性を内に含みこむようなユートピア的な政治形態に対する執着に存するのではないのだから、あらゆる救世的企図を去って、純粋に個人主義的要求を表明する80年代の個人主義は、〈5月〉の挫折よりはむしろ〈5月〉の真の姿を表しているとわれわれには思われる。フランス革命にとっては共和国に具体化されることは重要であったが、68年〈5月〉にとって自主管理に具体化されることは重要ではなかったのである。(Ferry/Renaut 1987=2000, 63

 68年の思想に含まれていた(ように見える)政治的諸要求は、「単にその個人主義がもたらす社会批判を完遂するために採用されたユートピア的企図」(Ferry/ Renaut 1987=2000, 50)にすぎなかった。それは欲望を解き放つための単なる手段であり、他のものと、場合によってはまったくの反対物とすら、代替可能な契機にすぎなかったのである。だからこそ86年に一時的に燃え上がった、大学関連法案をめぐる全国規模の学生運動の活動家たちは、フーコーやドゥルーズが生にとって敵対的だと考えた「法」に訴えかけるのに何のためらいもなかったのである。重要なのはあくまで個別的欲望を満たすことであって、そのために役立つのならばどんなマクロ秩序であっても利用してかまわない、と(2)。これは、68年−86年の連続性を示すと同時に、基本的に自由主義の立場に立って福祉国家を抑圧的なものと見なす68年の思想家たちの誤りを示している。(福祉)国家は自由を抑圧するものではなく、自由を保障するために自由主義そのものによって要請されるのだから(政治の勝利)、云々。

 単純すぎるというのも憚られるようなこの議論を──おそらくその単純さは意図されたものだろうが──これ以上フォローする必用はないだろう。ここで確認しておきたいのはむしろ、68年およびその後において生じたこの種の動向が、外見上の多様さにもかかわらずひとつの図式を前提とし、その内部を動いているのではないかということである。それはすなわち、ひとつの小文字の主体がひとつの大文字の主体へと包摂されるというものである。この図式がもたらす調和的なビジョンを解体するためには、ふたつの方策が考えられる。すなわち上を解体するか、下を解体するかである。前者においては統一的な個人主体が雑多な欲望の流れへと解体される。後者は世界を見通すことを可能にする統一的な概念枠の死が宣言され(大きな物語の終焉)、協約不可能な無数の言語ゲームの併存が指し示される。しかしこの複数化・多様化の動きがもともとは調和的だった統一的宇宙の解体として生じた以上、やがて揺り戻しが生じてこざるをえない。多様なものの現にある布置を統一的に捉え、批判し、改善を試みるためには、準拠枠となる普遍的なものを想定せざるをえないのではないか、と。

近代法哲学において、人間の自然権を準拠枠とすることは、実定性の領域を超える諸価値、超政治的であると同時に超歴史的価値を指し示すという本質的機能を持っていた。そこで問題になっていたのは歴史とそれが生み出したものを超えると想定される基準を準拠枠として、法の歴史的諸形態を判断し、ときには批判することであった。こうして法の観念の批判的機能は単に保持されていたばかりでなく、根拠づけられていたのである。フーコーが主張し、今日ドゥルーズが主張しているようなタイプの生命主義の枠内においてこの法の批判的機能をいかにして根拠づけうるかを知ることは難しい。もしすべてが歴史に(あるいは生に)内在的なものであるとするなら、この事実と価値の区別はいかにして保証されうるのだろうか。レオ・シユトラウスがみごとに示したように、この区別なくしては法という観念自体、その意味と機能の本質的部分を失ってしまうのである。(Ferry/Renaut 1987=2000, 100-101

 もちろんそれに対して再び、そのような統一的なものは多様なマイノリティのアイデンティティを暴力的に抑圧することによって初めて成立するのであって、むしろ重要なのはそれを脱構築することである(「脱構築こそ正義である」)という反論を突きつけることも可能だろう(3)。この批判−反批判の応答が反復されるたびに、そのつどの状況のなかで何かしら有益な成果が蓄積されていくはずだ。したがってあまりにも凡庸に見えるフェリー=ルノーの〈68年〉批判も、またそれに対して例えばカルチュラル・スタディーズの概念用具を用いて反撃を試みることも、決して無意味な作業ではあるまい。しかし逆に言えばいくら議論を続けてみたところで、それはしょせん往復運動の一局面でしかない。どちらからアプローチしようとも、最終的な結論は自ずから定まってしまう。すなわち多様性と統一性の両方を、適切なバランスにおいて考慮せよ、である(4)。この種の議論のうちに時代状況の要請を認めつつも何かしら閉塞感を感じざるをえないとすれば、それは「同一性の暴力」のゆえでもカルチュラル・スタディーズの「制度化」のゆえでもなく、むしろ枠組みそのものに起因するのではないか。

 だとしたら必要なのは、多様性と統一性を、あるいは個別性と普遍性を、貼り合わせる別の方途を探求することではないだろうか。あるいは、一般的なもの(例えば、フェリー=ルノーが言う意味での「法」)への服従とは別の主体のあり方を考えることである。服従=主体(subject)、この意味での主体が前提とされている限り、統一性/多様性の往復運動(あるいは、弁証法)から抜け出すことはできない。小文字の主体と大文字の主体のどちらの極を多様性へと解消しようと試みても、結局は同じことである。


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