十八世紀の、実際、これに先行するすべての世紀の一般的命題は……、事物の本性(a rerum natura)が存在する、事物の構造が存在するということである。ロマン派にとって、これはまったくの虚偽であった。事物の構造などは存在しない、なぜなら、そのようなものはわれわれを閉じ込めてしまうであろうし、われわれを窒息させてしまうであろうからである。行動のための空間がなければならない。潜在的なものは実際にあるものよりも現実的である。作られるものは死んでいる。あなた方は芸術作品を制作したら、それを放棄しなさい。なぜなら、一旦制作されると、それはそこにあり、駄目になり、去年のカレンダーになっているからである。作られるもの、制作されたもの、すでに理解されたものは、捨てられなければならない。おばろげな感知、断片、暗示、神秘的な光明−−それが現実を把握する唯一の途である。なぜなら、それを限定しようとするどんな試みも、首尾一貫した説明を与えようとするどんな試みも、調和的であり、開始、中間部、終結を示そうとするどんな試みも本質的に、その本質において混沌とし、形をもたず、泡立つ流れであり、自己実現への意志の途方もない大きな流れであるものの歪曲であり、戯画化であって、不条理で冒漬的な閉じ込めの観念であるからである。(Berlin 1999=2000, 174-175)
Everybody's Got Something
to Hide Except Me and My Monkey
誰もが何かを隠してやがる/俺とモンキーだけは別だがね (山本安見訳)
The Beatles (1968)(通称『ホワイト・アルバム』)所収。
砂川闘争で鍛えたLの声は大数室のすみずみまで響きわたった。/ざわめきが起こったが、殴りかかるものはいない。再び沈滞しそうになるのを食い止めようと司会役の活動家が丸山に発言を強制した。丸山は歯を食いしばるようにして「私は諸君を軽蔑する」と吐き出したなり、なおも沈黙を続けたが、その間「殴ってしまえ」というLのヤジは効果的に鳴り響いた。丸山の顔が歪んだ。恐怖に対して軽蔑による自負でおのれを取り戻そうとするのだが、顔面の筋肉は軽蔑の微笑に達するよりも前に、恐怖にずり堕ちてしまう。軽蔑を取り戻す努力をいつまでもやめたくないために、彼の顔は果てしなく、果てしなく醜く歪んでいった。(加藤 1986)
丸山はこの種の場でも常に冷静さを失わなかったとの別の証言もあるようだ。しかし「醜く歪んで」云々という加藤の記述が事実通りであったとしても、それを丸山が「堕ちた」証だと見なすべきではないだろう。発話に効力を与えてくれるのもまたこの身体的次元だからである。
さらに、この種の「批判」もまた決して新しいものではないのではないかとの疑念も生じてくる。ドストエフスキーが描く、再臨のキリストが大審問官に対して行った(キスによる)「批判」のうちに、その原型を見いだすことも可能だろう。この点によっても示唆されているように、われわれは〈68年〉をターニングポイントetc.として過大評価すべきではない。それはあくまで近代社会に潜んでいた問題を露わにした、(何回めかの)イベントにすぎないのである。
そしてむろん、この「語用論的転回」それ自体によって何か新しいものが−−構造主義を「超える」ものが−−もたらされるわけではない。このパフォーマティブな次元を統御する文法(構造)へと話を進めることも可能だからだ(そうせざるをえないはずである)。その点ではバトラー=上野は、脱構築「以前」に位置づけられるべきである。
もし今 国民がこう言ったとしたらどうだろう/ビッグバンになっても我々はばくちをしてまで資産を増やしたくない/「より金持ちに」という価値観はあきたのだ/日本という国家を信用して郵便貯金と日本の銀行に預けておく/政治家・官僚は「より金持ちに」とは違う価値を我々に示してくれ/例えば「より安全で信頼しあえる国に」……とか!(小林 1999, 12)
私たちは「常識」の拘束力に抗いながら、常識自体を複雑な権力作用の交差する場所として捉え直さなければならないだろう。(山田 2000, 99)
しかし「世の中は複雑だ」というこの物言い自体、あまりにも単純過ぎはしないだろうか。むしろ次のような逆説的な表現のほうがまだ適切なのではないか。「世の中は複雑だ」と断言するといういう単純な態度が常に通用するほど、世の中は単純ではない。世の中は、時として「世の中は単純だ」との仮定の下で振る舞うほうが適切な場合があるほど、複雑なのである、と(馬場 2001a、第1章を参照)。
〔バリバールが示唆したいのは〕ある種のイスラム教への言及の仕方にも人権の要求と人権の普遍化があり、それに内在する矛盾は、普遍的なものの我有化、つまり西欧の権力がその要素のなかに横取りした解釈の独占という、別の矛盾に対する対応でしかないという事実である。世界のイデオロギーの舞台は、普遍主義と特殊主義の対立の舞台ではまったくない。それはむしろ、虚構の普遍性どうし、普遍性への敵意どうしの対立の舞台であり、普遍主義自体のなかの対立の舞台であろう。(Balibar 1998=2000, 110)