【告知文より】
ゲストのお二人には、それぞれに、上記書籍(特に前者)に接して、
- 面白かったところ。
- 疑問をもったこと。
- 関連しそうな哲学的な話題。
- 読んでいたときにふと思いついたこと。
などを、「話題提供」と「雑談」の中間くらいの感じで紹介していただく…
- 非常にきれいな構成になっていて読みやすい(自分たちが作る時に参考になる)。
- (例)
「EMは実践についての学問である。」
(WM, pp. iv-v)
「実践を記述するということは、そもそもどういうことなのだろうか」
「そもそもなぜそんなことをしようと考えるようになったのだろうか」
「具体的にどういった記述ができるのか」
⇒ この3つの問いに対応した3部構成で、順に理解が深められるようになっている。
- EMも哲学も極めて幅広いトピックを扱うことができる。
「EMは、私たちが参加しうる実践であれば、どこからでも研究を始められるものです。」
(WM, p. viii & p. 122)
- 哲学も、特に理系の人からすれば、「取り扱う論題に関して非常に幅の広い学問」と考えられている(via個人的経験)。
- EMも哲学も、検討対象となる実践に対して(しばしば)メタ的な視点で探求を行う。
- Philosophy of Science, Philosophy of Philosophy, etc.1
- EMも「実践についての記述」である、という点で実践に対してメタ的。2
- 両者には、〈実践についての記述や分析を研究課題とする〉 、〈極めて幅広い実践を研究対象にすることができる〉という共通点がある。
【ここで簡単な質問】
- 「EMについてのEM研究」 というのはすでに存在するのか?
- 「哲学についてのEM研究」 というのはあるのか3/興味を持って頂けるか?
- 哲学者はP of P の一貫としても興味がある。データ提供で協力は惜しまない。
- EM研究によって得られた分析結果について、EM者と哲学者が一緒に検討・議論する、というのも面白そう(「哲学者は一体何をやっているのか?」)。
1 ただし、個別科学の哲学には違うモード――科学的実践のうちで取り扱われている哲学的問題そのものに、科学者と共に取り組む、など――のものもある。たとえば、生物学の哲学における「自然選択の単位問題(個体選択説vs集団選択説等)」や「種問題(種とは何か/正しくはどう定義されるべきか)」などでは、哲学者が生物学者と組んで生物学的主張を展開している。
2(私の理解した限りでは)EMは〈検討対象である実践のうちに入り込み〉〈そこで用いられている方法論を実際に使用できるものの目線で実践の記述を行う〉という点において、従来の「外部からの/押しつけ的な記述(モデル化)」とは異なる。とはいえ、EM研究の結果として提示されるoutputと検討対象としている実践とは、同一のものではない。前者は「後者についての記述」であり、その意味で後者に対してメタ的と言えるのではないか。⇒誤解であれば是非ご指摘頂き、理解を前進させたい。
3 ただし、「哲学」という分野そのものが非常に多様で幅広い様々な研究伝統からなる混成体である点は考慮すべき(たとえば、哲学史と分析哲学とでは、理論仮説の正当化に際しての境界条件ひとつとってもかなり異なっている)。それゆえ、一息に「哲学についてのEM」とやるよりは、「分析哲学についてのEM」とか「心の哲学についてのEM」といった形で細分化した方がよいかもしれない。
- たしかに、「実践を仔細に分析する」という手法は、EM・哲学の双方に見られるメソッド。しかし、「なんのためにその手法をとるか」という点に関しては違いがあるかもしれない。
- 哲学において「我々の実践のありように立ち戻る」というメソッドが用いられるのは、主に、しばしば我々が陥りがちな概念的混乱を解消するため(LW『探求』)。5
⇒ つまり、哲学においては、「ある実践の仔細を明らかにすること」が有意義である/重要性を持つのは、概念的混乱を解消する場合に限られる。
- 他方、EMにおいては、(少なくとも管見の限りでは)そのような目的意識の元で「実践の仔細な記述・分析」が行われているわけでは必ずしもないように思われる。
⇒ ここで疑問: 「問題や混乱があるから分析して誤解の種を取り除く」というのはよくわかる。しかし、「問題や混乱を解消する」というモチベーションがあるわけではない、と。すると、分析の結果として明らかになることはあるとして、「それを明らかにしたこと」に価値があるか否かはどこで判断するのだろうか。
「概念の論理文法とは、私たちの生活をかたちづくる概念の結びつきのことです。そして論理文法分析とは、そうしなければ見落とされがちな、論理文法上の区別を、はっきりと見通せるようなかたちで見通せるようにすることです。」
(WM, p. 56)
⇒「そうしなければ見落とされがちな」というところに、ある実践を仔細に見て明らかにすることに意義があるかどうかのポイントがあるのだと思われるが、ちょっとこの辺、まだ十分に理解が及んでいない。6 (これはおそらく「分野が違う」「育ってきた環境・価値観が違う」というところに起因する疑問だとは思うが…。)
- 要するに、気になっているのは「EM者達はどういう観点から《自分の研究において注目する実践》を選んでいるのか」 7あるいは「EM者の間ではどういう着眼点が《意義あるもの》として評価されるか」ということ。
⇒ あらゆる実践が検討対象になりうるとはいっても、「なんでもかんでも手当り次第に分析すればよい」というものではないだろうし、「どの実践を取りあげようが研究の意義としては一律に同等」というわけでもないだろう、と個人的には思うのだがどうか。
- 逆に言えば、「実践を仔細に見ないとマズいのはどのような場合か?」という問いに、EM者はどのように答えるのか(哲学者からのひとつの答えは「実践に対する誤解の故に哲学的混乱が生じている場合」というものになる)。
4 おそらく、この疑問点は、EM、ひいては社会学そのものに対する私の不勉強・無理解の故に生じてきているものだろう。しかし、EMに関して私が聞いてみたい論点はほぼこれに尽きると言っても良い。ここが腑に落ちれば、他の論点についても芋づる式に理解が進むのではないかと考えている。
5 感覚を「本人のみが確認できる、主観的内容を持ったもの」として理解してしまうことによって生ずる他我問題その他のアポリアを解消するために、そもそも我々が感覚語をどう使っているかを見る、など。
6 一般的な意義ではなく、個別事例ごとで構わないので、「この概念実践ではしばしばこの区別が見落とされる」⇒「それが見落とされてしまうとこういうマズいことがある」⇒「だから分析する」といったストーリーがあれば、分析することの意義等が非常にわかりやすい形で理解できるのだが。
7 たとえば、研究テーマ立ち上げに際して、「お、この実践は興味深いな」とか「厳密に分析してみる価値があるな」といった判断を通して研究対象のピックアップが始まるのではないのか。
- 哲学理論の妥当性評価基準の1つは「我々が持つ(概念的)直観との整合性」。
【5分でわかる Philosophy of Mind 概史】
- デカルト的二元論:心は空間的広がりを持たない非物理的対象ないし状態。心の中身は一人称的観点からのみ知られうる。
⇒「心身因果がある」「他者の心を知りうる」という直観に違反。
- 行動主義:ある心的状態を持つ=ある行動傾向を持つ。
⇒上記直観とは整合的。
⇒振る舞いに表れない心的状態があるという直観に違反。
- 心脳同一説:ある心的状態を持つ=ある神経系の活性化パターンにある。
⇒「振る舞いに表れない心的状態」の存在を許容可能。
⇒神経系を持たない異星人も心を持ちうる、という直観に違反。
- 機能主義:ある心的状態をもつ=ある因果的役割を果たす状態にある。
⇒「神経系を持たない異星人の心」も許容可能。
⇒中国人民全体が心的状態を持ちうることになる等、直観に反する帰結を持つ。
- 解釈主義:心的状態=合理的agentとして解釈される際に帰属されるもの。
⇒心身因果がうまく説明できなくなる、一人称特権が危機に瀕する、など。
- * これらの概略史から見えてくるのは、次のような構図。
[1] 我々は心に関するさまざまな直観を持っている。
[2] これらの直観とうまく整合しない理論は、その点において攻撃される。
[3] 先行理論は、それが取り込めなかった直観をうまく取り込める新理論によって取ってかわられる。
⇒「我々が有している直観」と「哲学的理論」との整合性が目指されている。8
- 理論評価の境界条件となるこの「(概念的)直観」の内容を特定する作業は、従来、哲学者自身による「反省」や「思考実験」9 を通して行われてきた。
- こういうケースは「知っている」って言わないよね。
- 心ってこういう性質を持っているよね。
- こういう生き物も心を持っているよね。
- 近年勃興してきている「実験哲学」というムーブメントは、直観の内容特定作業を哲学者に一任することに疑義を呈する。むしろ、一般人の概念的直観を実験心理学的手法によって抽出し、それを利用しようというのである(哲学者が世の中的にみれば「変わり者」であることを考えればそれなりに説得的ではないか)。10
⇒ 実際、一般人と哲学者の間で、「心」や「知識」といった哲学的に重要な概念に関する理解のズレが存在することは、実験心理学者の報告によって数多く明らかにされており、この事実をどう受け止めるかはメタ哲学的な立場に関する重要な分水嶺になっている。
- 個人的には、この「直観の内容特定作業」をEM側に発注するというのは面白いのではないかと考えている。ただし、(3)で取りあげた論点と関連して、EM内部での研究意義評価に合致しないと、うまく連携できないかもしれない。この辺りについて、EM者の皆さんの意見を伺ってみたい。11
- ちなみに、個人的には、「理論と直観の整合性」を達成するための方策として、「直観に合わせて理論を修正する」という方向だけでなく「理論に合わせて直観を修正する」という方向もアリなのではないかと考えている。12 13
⇒ もちろん、実践の「改訂」については、「EMは全てをあるがままにしておく」という綱領もあり、実際これまで接してきたEM者達は極めて慎重なスタンスを表明しているように思われる。他方で、WMの「小論」(p.248~)などで示されているように、実践の改訂作業や提案そのものには立ち入らない(それはEMの範囲を超える)がそのために役立つデータの提供は行う(これはEMの範囲に収まる)、という形で連携可能だと理解してよいか。
- (この確認質問の趣旨は、前段のような半–拒否的なリアクションをしばしば目にすることで生じてきたこちら側の不安──何か見えない地雷を踏んでしまっているのではないか等──を解消したい、というところにあります)。
- 逆に、哲学がEMに貢献できる道筋はないでしょうか。
8 もちろん、直観との整合性だけではなく、科学的に確立された知見との整合性や、広く受け入れられている世界観との整合性等も評価基準になりうる。
9 哲学分野ではこの作業がしばしば「概念分析」と呼ばれる。
10ただし、実験心理学的手法によって得られた一般人の直観をどう利用するかについては、哲学者の直観とのズレを指摘してそもそも直観に頼るやり方自体を批判するための根拠とする強硬派と、一般人の直観と哲学者の直観を組み合わせてより良い証拠生成を目指す穏健派とがおり、実験哲学者の中にも相違がある。
11 異分野融合研究というのは、連携する各研究者の取組みがそれぞれの分野で論文になるといった互恵的な形で着陸しないと長続きしない、と個人的には考えている。
12 現在私が工学者達と取り組んでいる「ロボットを使って心に関する我々の直観を修正できないか」という現在進行形の構想がこれに該当し、その中でEM者と(上述のものとは少し異なる)連携の可能性が生ずると考えている(個人的には、この構想との絡みがEMとの連携についてのメインの関心事)。 ただし、説明するのに時間がかかるので、内容紹介およびその中でEM者に協力を要請したいタスクについては、懇親会等でざっくばらんにお話しできればと思う。
13 「われわれが用いる多くの概念は、いわば「過剰規定」されている。すなわち、ある概念の了解に含まれる規定の総体には、多くの場合、一組の「必要十分条件」以上のものが含まれている。それゆえにこそ、われわれの信念体系は豊かな内容を持ち…信念体系には矛盾が生じうる。」(丹治信春「行為と自由の決定論」大森荘蔵他編『新・岩波講座哲学10 行為・他我・自由』,170)