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馬場靖雄論文書庫 |
そのほか |
作成:20150710 更新:20161201
この頁には、2015年7月から開始した「『社会の芸術』解読」講義に関するメモや質疑応答などの一部を収録しています。
第01回講義(2015.07.09) |
第02回+講義(2015.09.29) |
第03回講義(2016.02.15) |
第04回講義(2016.04.18) |
第05回講義(2016.07.04) |
第06回講義(2016.10.10) |
第07回講義(2016.12.01) |
第08回講義(2017.01.19) |
第09回講義(2017.03.09) |
といった研究上の問いを立ててみることが出来ます。a - c、b - c についても同様です。
- どのような特定の・限定的な身体使用が、コミュニケーションの特定の編成を可能にしているのか
- どのような特定のコミュニケーション編成が、身体の特定の・限定的な使用を可能にしているのか
「概論」部分では、「ルーマンはどのようなやり方で・どんなものを書いたか」を紹介したうえで、「それとどのように付き合えばよいのか」について紹介しました(これは今後の講義の指針ともなるものです)。
世界人口推定のグラフを使いながら、ルーマンの議論の時間的射程についてのイメージメイキングを行ないました。
これからこの本を読んでいくにあたり、方針となるものが欲しくてする質問です。スライドの9ページ、『社会の理論』シリーズの説明の中に、とあります。これはまともな課題だと思うのですが、講義の そのあとの時間で紹介された
第三部『社会のX』はそれぞれ「Xの特徴は何か」──「Xにしかできないこと・Xしかしていないことはなにか」──を検討したもの。といった作業は、多様なシステムにおける「似てるとこ探し」のように思えるので、目的にそぐわない気がするのです。「似てない」ところを探り当てないと、当初の課題には答えられないですよね。
- 当該領域に関するトピックを、システム理論のもとに包摂する
この本の中で、「これは芸術しかやっていない・芸術にしかできないことだ」というのが書いてあるのはどこなのでしょうか。
なお、「A:Xにしかできないこと・Xしかしていないこと」、「B:当該領域に関するトピックを、システム理論のもとに包摂する」というのは、それぞれ次のような議論でした。
- 第三部『社会のX』はそれぞれ「Xの特徴は何か」──「Xにしかできないこと・Xしかしていないことはなにか」──を検討したもの。
- これはおそらく通常の関心──たとえば「Xに何が・どれだけできるか」といった、当該領域の可能性をできるだけ高く見積もろうとする関心──とは相当に異なる。
→しばしば── シリーズのうち一冊しか読んでない人に──「ルーマンの関心は狭すぎる」と非難されることに。
- しかしこれはシリーズものなのに一冊しか読んでない方が悪い*。
* 関心が狭いのは むしろ批判者のほうであろう。
等価機能分析は、探索術であるとともに、記述の抽象性の水準をコントロールする技法でもある、というお話がありました。酒井さんの目から見て、この技法はうまくいっているのでしょうか。一つのものに対して複数の機能を想定できてしまう、といったところをみると、複雑すぎてうまくいかないのではないか、という印象を持ったのですが。
伝統的には心的な諸能力はハイアラーキカルに整序されてきた。そこでは、感性、すなわち知覚には、反省を担うより高度な機能である悟性および理性に比べて、一段低い地位が割り当てられてきた。我々はいまだこの伝統の延長線上に位置しているのである。
邦訳 頁数 |
章タイトル | 扱われているトピック | |
---|---|---|---|
006 | 序 言 | ||
084 | 第1章 | 知覚とコミュニケーション:形式の再生産について | 共生メカニズムとしての知覚(芸術活動における身体利用の制限) |
082 | 第2章 | ファースト・オーダーの観察とセカンド・オーダーの観察 | 制作と鑑賞 |
054 | 第3章 | メディアと形式 | 芸術作品 |
086 | 第4章 | 芸術の機能と芸術システムの分出 | 虚構、有用性、象徴と記号 |
044 | 第5章 | 自己組織化:コード化とプログラム化 | 美と様式 |
052 | 第6章 | 進化 | [術語の確認]、装飾、様式 |
116 | 第7章 | 自己記述 | 美学芸術学と批評 |
通常、美学では「感性」という語が使われると思うのですが、なぜルーマンは「感性」ではなく「知覚」を使うのでしょうか。
書いてないので分かりません、が最初の答えなのですが。
ご指摘のとおり、なにしろ名前からして Ästhetik というくらいですから、美学は aesthesis の学であり、それは伝統的には(ドイツでは)Sinnlichkeit(日本では「感性」)と訳されてきたわけです。なので、それを使っていないからには、「なにか理由があって わざわざ使っていないのだ」と考えるべきところかと思います。しかも、さきほど読んだ第1章冒頭の箇所が まさにそうなっていますが、「感性、すなわち知覚」というように、二つを互換的に使っています。また本書のなかで しばしば参照される、「知覚に概念は不要だ」というカント風テーゼがありますが、これは、もとのカントのテクストでは「感性」という語彙で行われている議論です。しかし互換的に使うのならば、むしろなぜ「知覚」で言い換えるのか、と問われるところでしょう。
一つ考えられるのは、美学の基礎概念1に乗っからないで、それも含めて再記述するために、「感性」をカヴァーする・より広い術語として、心理学(あるいはもしかする現象学)から言葉を持ってきた、ということです。
私はこの可能性しか思いつきませんが、なにしろ理由がなにも書いていないので自信はありません。
いずれにしても、「あえてそうしている」のは間違いないですが、ここは そうする理由をちゃんと書いておいてくれないといけないところだろうと思います。
「芸術自身が歴史に定位する」といった形で登場する「定位」の意味が分かりません。
orientate / orientieren などの訳語です。「~の方を向く」という意味ですね。「定位する」は主として心理学方面の訳語なのだろうと思いますが、内容に応じて「順応する」とか「適応する」などと訳されることもあります。社会学の文献では「方位づける」とか「志向する」も見たことがあります。
「芸術自身が~」の場合だと、「芸術作品の制作・鑑賞・評価などが、美術史を強く気にかけながら行われるようになる」といったことを言いたいのだろうと思います。
配布資料1「帰属形式」の項に出てくる「体験」「行為」の違いが分かりません。ルーマンのテクストにおいて、「行為/体験/帰属」は次のかたちで術語的に使われています:
たとえば、1984年に刊行された『一般理論要綱』には、次のような件りがあります:
〔自動車の運転手と同乗者の間には、しばしば次のような帰属の食い違いが生じることがある。〕 運転手は、自らが最善の能力とともに状況の方へと向いていると信じている。同乗者は、彼を観察し、その運転の仕方の特異さを人格のメルクマールへと帰属させる。そして、… それに対して運転手は、彼の行動の根拠をそのつどもっぱら自らの背後にもっており、それどころか、その根拠をその状況の文脈において体験している。助手席に座っている同乗者の目からは、運転手の運転は乱暴に見える(=運転手の側に原因があってそのような運転ぶりになっているように見える)のですが、運転手にしてみれば、自分は 刻々と移り変わる状況に対応する形で(=その都度の体験に応じて)運転しているだけのつもりなのだ、というわけです。
(『社会システム理論』1984=1993 359頁)。
酒井さんがルーマン研究に深くとりかかった理由が知りたいです。
こんなにルーマンの悪口、批判を繰り返しながら、それでも付き合っている理由はなんでしょうか。
講義を頼まれたからです。
なお 特に研究はしておりません。
邦訳 頁数 |
章タイトル | 扱われているトピック | |
---|---|---|---|
006 | 序 言 | ||
084 | 第1章 | 知覚とコミュニケーション:形式の再生産について | 共生メカニズムとしての知覚(芸術活動における身体利用の制限) |
082 | 第2章 | ファースト・オーダーの観察とセカンド・オーダーの観察 | 制作と鑑賞 |
054 | 第3章 | メディアと形式 | 芸術作品 |
086 | 第4章 | 芸術の機能と芸術システムの分出 | 虚構、有用性、象徴と記号 |
044 | 第5章 | 自己組織化:コード化とプログラム化 | 美と様式 |
052 | 第6章 | 進化 | [術語の確認]、装飾、様式 |
116 | 第7章 | 自己記述 | 美学芸術学と批評 |
ルーマンの議論が、システム論の枠組みを用いながら、比較によって主題となるものの特徴を描いていこうとしているのだ、というのは、ストーリーとしてはよく分かります。しかし、私が読む限りでは、様々なものの〈同じ〉側面は描かれているものの、〈異なる〉側面は読み取りにくいように思うのです。 同一性ではなく差異の側面を読み取るには、どういったところを読めばよいのでしょうか。
ここでの〈同じもの〉は「身体使用(特に協働的使用)」、〈差異〉は「身体の目立った使用/機能領域における目立たない限定的な使用」。
- スポーツやダンス、合奏やドラッグカルチャーなどにおける身体使用は目立つし、社会学者が身体の社会的使用を考えるときにもこうしたものが取り扱われやすい。
- 他方、ごく定型的な経済活動、研究活動、政治活動、芸術活動などにおける極めて限定的な身体使用については、社会学で注目されることは多くない。また注目される場合は──それぞれの身体使用・身体表象がそれとして分析されるのではなく、むしろ──単に「近代社会における身体性の抑圧」が嘆かれたり批判されたりすることが多い。しかし目立った身体使用も目立たない身体使用も、どちらも重要なものであって、後者はそれとして取り上げる必要がある。
- そう考えた場合、機能領域における身体使用は、エリアスのいう「文明化の過程」における 身体の使用可能性の限定・身体についての見方考え方語り方の限定 という観点から考えてみることができるはずである。
節番号 | 節見出し | 段落数 | トピック |
I | 社会システムの機能分化 | 10 | 社会学における「機能分化論」の伝統 |
---|---|---|---|
II | 芸術の機能 | 36 | 意味と機能、現実の二重化 |
III | 芸術と「現実」 | 03 | 補遺:知覚について |
IV | 芸術の自己言及と他者言及──「有用性」をめぐって | 14 | ここから「分出」の議論へ |
V | 芸術システムの自律性と分出 | 08 | 補遺:社会進化を記述する際のシステム論的前提について |
VI | 分出への歴史的経緯 | 15 | 歴史的素材の概観 |
VII | 象徴・記号・形式 | 22 | 言及形式に基づく発展段階論 |
VIII | 芸術の多様性と統一性 | 07 | 芸術システムについて |
IX | 芸術と宗教/政治 | 07 | 関係)について |
第4章にも出てくる「作動的閉鎖」とはどういうことですか。「閉鎖 closure」は初等集合論の術語です(現在はどうか分かりませんが、昔は高校の教科書にも載っていましたね)。
段落 | トピック | |
---|---|---|
01-10 | 機能と意味 | |
11-12 | 知覚 | 12 テーゼ「芸術が追及するのはこの問題へと特殊化することである」 |
13-16 | 宗教・言語との差異、現実の二重化 | 13 テーゼ「芸術の機能は、~」 |
17 | 美/醜 | |
18 | 問「芸術が存在するとき、現実はどのように現れてくるのか」 | |
19-22 | 宗教との関係における芸術の自律性 | |
23 | 芸術理論 | 問「芸術の機能が進化上の《アトラクター》として働くのは、どんな特殊な意味においてなのか」 |
24-26 | 日常的な世界構成と芸術との関係 | |
27-28 | 目的 | |
29-31 | 偽りの現実の利用による模倣からの逸脱。 形式の徹底的な利用へ。 現状を変えてしまおうとすることの異常さ。 |
30「芸術の機能は、単に可能なものの領域においても秩序の強制力が存在しているのを示すことにある」 |
32 | 複雑性。 多様性のコントロール、冗長性と変異性 |
|
33-34 | まとめ1: | 社会の機能分化と芸術の機能的優位性 社会の階層的秩序の解体と機能的諸システム成立による循環的秩序の成立 |
35-36 | まとめ2: | 芸術の機能: 世界の中でに世界を出現させること。観察不可能なものの観察可能性。可能な形式に関する視界の拡張。 |
「アクチュアリティ」と「リアリティ」の違いが分かりませんでした。前者は「潜在性」と対比されるもの、後者は「虚構性」と対比されるもの、と理解してよいでしょうか。
また訳書本文中、「現実的な現実/虚構的な現実」という表現がでてきますが、この「現実」は「リアリティ」の方なのでしょうか。
芸術作品は知覚可能であり、その点だけによってすでに、否定され得ない独自の現実としての性格を持つ。しかし、さらに加えて意味を用いることによって 想像的な、あるいは虚構的な現実を構成しもする。世界は、現実的な現実 と 想像的な現実とに分裂させられる。[236頁]
Es konstituiert, bei aller Wahrnehmbarkeit und bei aller damit unleugbaren Eigenrealität, zugleich eine dem Sinne nach imaginäre oder fiktionale Realität. Die Welt wird, ... , in eine reale und eine imaginäre Realität gesplaten.[S.229]
〈顕在性/潜在性(or 可能性)〉 | これは意味を構成する区別として、術語的に使われています。現象学から取り入れられたものです。 |
---|---|
〈意味/世界〉 | 「世界」という語は、術語的には「意味使用の(包括的な)地平」という意味で使われています。 「宇宙」には森羅万象が包摂されますが、それとは違って、「世界」に住まうことが出来るのは──この語用のもとでは──「意味」を使用することができる者だけです。 |
〈システム/環境世界〉 | 「世界 Welt」と似た語に「環境世界 Umwelt」がありますが、ルーマンのテクストでは、こちらは あくまで「システム」とペアで使われるものです。したがって──現象学の文献では「世界」と「環境世界」の区別ははっきりしないことが多いのですが──ルーマンの場合には、両者は はっきりと区別して使われています。 |