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作成:20171019 更新:20190213
この頁には、2017年10月から12月にて朝日カルチャーセンター新宿にて開催する「ルーマン解読6」講義における質疑応答などの一部を収録しています(「ルーマン解読」講座全シリーズの紹介)。 小宮友根さんによる著作紹介、講義当日の応答の再録と、講義後にいただいた質問に対する回答が含まれており、署名のない項目はすべて酒井によるものです。
概要 |
第一回講義(2017.10.18) |
第二回講義(2017.11.15) |
第三回講義(2017.12.20) |
1968年に刊行された著作『信頼』は、特に日本では著名な倫理学者によって邦訳されたこともあずかって、ルーマンの著作の中では比較的広く読者を得たものです。しかし、なぜこの時期にこのような形で信頼を取り上げなければならなかったのか、そしてまた ルーマン理論のなかで信頼という論題がどのような位置にあるのかは、それほど判明ではありません。
後期の著作群『社会の理論』の方から振り返ってみると、これが、ルーマン流の近代化論の内実を与える社会学的時間論を構築するための一論題として扱われていることが見えてきます。そこで本講義では、
本書でルーマンが取り組んでいるのは、「信頼」と彼が呼ぶものを機能分析の対象とするという課題です。ここで「信頼」と呼ばれるのは、「相手が然々の仕方で行為するならば何らかの利益が生じるが、手持ちの情報だけでは相手が然々の仕方で行為すると確実には言えないところで、しかし相手が然々の仕方で行為することをあてにして自分も行為する」ということです。たとえば待ち合わせ場所に急ぐとき、あるいは「国産」と書かれた高い牛肉を買うとき、私たちは待ち合わせ相手や売り手を「信頼」しているということになります。
他方、「機能分析の対象とする」というのは、対象がどんな問題に取り組んでいるかに注目し、同様の問題に取り組んでいる他のものと比較しながらその特性をあきらかにするということです。ルーマンが本書で信頼の「働き」とみなしているのは「複雑性の縮減」です。複雑性の縮減とは、大雑把に言えば、可能性(ここでは特に他者がどう行為するかについて想定しうる可能性)が絞り込まれることです。たとえば道ですれ違う人が自分に殴りかかってくる可能性は理屈の上では常にあるわけですが、そうしたあらゆる可能性を想定して行為しなければならないとしたら私たちは社会生活を送れなくなります。逆に言えば、私たちの社会生活は、想定される可能性が絞り込まれる(複雑性が縮減される)ことで成り立っています。「信頼」には、そうした働きがあるとルーマンは言っているわけです。
信頼のこうした働きを捉えるうえで、ルーマンは社会システム論を採用することで、複数の行為が繋がってまとまりが作られている(社会システムの存続)という事態から信頼について考えます。社会システムが存続するためには複雑性が縮減されなければなりませんが、複雑性を縮減する働きをもつものは信頼以外にもあります(ルーマンや法や組織を挙げています)。では、他ならぬ信頼によって複雑性が縮減されることは何を可能にしているのかと問うわけです。
二つの側面を持つ回答を与えています。一つの側面は、信頼による複雑性の縮減は、社会が高度に複雑化すること(機能分化)を可能にしている、というもの。もう一つの側面は、機能分化が成立しているからこそ、信頼することが容易になっているというものです。
機能分化というのは、経済、政治、科学などの領域ごとにそれぞれ独立の社会システム(機能システム)が成立することです。この機能分化の成立に「信頼」がどのようにかかわっているのかを論じるためには、ルーマンは「馴れ親しみ」「人格的信頼」「システム信頼」を区別して対比しています。
「馴れ親しみ」とは簡単に言えば、「これまでやってきたとおりにやる」以外の可能性が意識されていないことですが、機能分化した社会ではある行為がどのシステムに属するかには常に複数の可能性があるので、馴れ親しみではコミュニケーションを支えられません。「人格的信頼」は相手の人格にもとづいて相手が然々の仕方で行為することをあてにすることですが、機能システムが成立するためには見知らぬ人どうしの行為も繋がることができなければなりませんので、人格的信頼も機能分化を支えるには不十分です。
それに対して「システム信頼」は、象徴的に一般化されたコミュニケーションメディア(SGCM)に対する信頼です。SGCMとは、特定の機能システムにおいてどんな行為の繋がりが可能なのかを示してくれる象徴のことです。経済システムなら「貨幣」、政治システムなら「権力」、科学システムなら「真理」がそれにあたります。そうしたメディアは、「売買」「集合的意思決定」「知識・情報の獲得・伝達」にかかわる行為どうしの繋がりを仲立ちします。SGCMに対する信頼があると、見知らぬ相手に対してであっても、そうしたメディアのもとで相手が行為することをあてにできるようになります。こうして、「システム信頼」という特殊な信頼は機能システムの成立を可能にしているというわけです。
他方、SGCMは当然のことながら機能分化とともに成立しているものです。従って、システム信頼という信頼――非人格的であるがゆえに学習が容易で、期待外れに強く、信頼しているということすら通常は意識されない強固な信頼――の様式の成立は、機能分化が準備したものでもあります。機能分化と信頼が相互に成立条件を提供しあっているこの関係への注目が、本書の醍醐味となっています。
「どんな意義があるか」よりもまず、「何に使えないか」を確認しておくことが重要かもしれません。とりわけルーマンの議論から、日常的な意味での「信頼」について何か教訓めいたものが引き出せると考えることには慎重さが必要です。ルーマンを読んでも、どんな人が信頼できるのかや、どうやって他者と信頼関係を築いたらいいのかはまったくわかりません。ルーマン自身、そうした問い(「倫理学的問い」と彼が呼ぶ問い)と自分の仕事の違いを繰り返し強調しています。実際、ルーマンが「信頼」と呼ぶものは、日常的な意味での「信頼」よりも広いもので、ほとんどすべてのコミュニケーションにかかわるもののようにも見えます。そうであるなら、本書の「信頼」という概念はある種のインフレを起こしているとも考えられるでしょう。
では、そうした議論から私たちはどんな意義を引き出せるでしょうか。ひとつの読み方は、ここには「社会秩序」についての(当時の)新しい視点があるのだと理解することだと思います。確かに私たちの社会ではたくさんの人がそれぞれ自分で選択しながら行為しているわけですから、そのたくさんの選択が噛み合って機能システムが成立しているなどというのは途方もなく複雑なことのように思えます。けれど上でも述べたように、複雑性の増大とその縮減相互に関連して生じているものです。すなわち、「社会はいまや単一の原理もとで皆が一様に行為しているまとまりではなく、各自が自分の選択で行為している人たちの集まりである」(奥行きのある分節化された人格を備えた・自由な個人からなる社会)というイメージは、それ自体機能分化した社会のもとで初めて出てくるものなのです。こうした視点は、たしかに行為の合理性や、価値規範の共有から社会秩序の成立について考える視点とは大きく異なるでしょう。
こうした読み方は、たとえばジンメルの社会分化論、ゴフマンの自己呈示論、あるいはルーマン同様「信頼」について考えることから出発したガーフィンケルのエスノメソドロジ-とルーマン理論の関係を考える上で、興味深い手掛かりを与えてくれると思います。私たちはいわば、「社会学的思考の遺産」を比較検討する視点を手にすることができるわけです。
酒井 | 小宮講義 |
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①第一部 | 1984年 | 社会システム:一般理論要綱 |
②第二部 | 1997年 | 社会の社会 |
③第三部 | 1988年 | 社会の経済 |
1990年 | 社会の科学 | |
1993年 | 社会の法 | |
1995年 | 社会の芸術 | |
2000年 | 社会の政治(死後出版) | |
2000年 | 社会の宗教(死後出版) | |
2002年 | 社会の教育システム(死後出版) |
①第一部(一般理論要綱) | コミュニケーション単純化の標準図式としての道徳 |
②第二部(社会の社会) | 馴れ親しみ の空間からの宗教的シンボルの成立 |
③第三部(社会のX) | 象徴的に一般化したコミュニケーション・メディア(SGCM)のインフレ/デフレ |
機能分化した社会では人は「人格をもった個人」と理解されるようになり、どう行為するか見通せない存在となる
(「信頼」することが意味をもつようになる)←→ どう行為するか見通せない相手とも「システム信頼」にもとづいてコミュニケーションができることで機能分化した社会が成立する。
パーソンズ(価値の共有)とルーマン(信頼)はどれくらい違うのか。
ギデンズは伝統的な社会から再帰的社会への移行に関連付けてSGCMへの信頼を論じていますが、これはギデンズがルーマンを参考にしているのでしょうか。
- 〈馴れ親しみ/信頼〉という区別は〈相互作用/全体社会〉に対応しているのでしょうか。
- 酒井さんと小宮さんの二人で、この三類型を批判する論文を書かれていたと思うのですが1、この三類型を使わない場合には、相互作用における馴れ親しみ・信頼というものをどう捉えたらよいのでしょうか。
メモ:『信頼』と現象学
- 『信頼』(1968)においてルーマンが、「信頼」を一括して規定するために「最初の一歩」の道具立てとして術語的に使っている Vertrautheit は1、フッサールの生活世界論──と、それを改鋳したハイデガーによる日常性に関する議論──から借用されたものである2。
- ちなみに、少し前の時期(1964)にはオットー・フリードリヒ・ボルノウも同様に現象学に依拠した信頼論を提出しており3、ルーマンも当然ながらこれを横目に見ながら『信頼』を書いたであろう4。注目すべきは、ボルノウがハイデガーの情態性に関する議論を ほぼそのまま拡張するかたちで──信頼を情態性の契機の一つとして位置づけるかたちで──信頼論を展開したのに対して、ルーマンの方は、馴れ親しみの領域に亀裂が走るところにこそ信頼の必要性を見ていることである。ボルノウとルーマンの現象学へのコンタクト・スタイルを比較すると、ルーマンの現象学に対する──積極的な利用 と 限界確定・歴史化 を同時におこなおうとする──両価性が、特にはっきりと見て取れる。
- 後年のルーマンはこの議論をさらに進め、馴れ親しみに関する議論を 特に宗教人類学的な論題領域でも活用した。たとえば「生活世界」論文(1986)5や『社会の宗教』(2000年、死後出版)では、どちらも「馴れ親しみ」から出発して神話や宗教的シンボルについて論じられている 。
- ここからもう一度振り返って『信頼』を読んでみると、「馴れ親しみ」という術語が後年と同様に、日常性にだけではなく「古代的秩序6」にも使われていることに気づく。つまり、ルーマンによる生活世界論へのコンタクト方針は
という点で、『信頼』執筆時から晩年まで維持されているといえる。こうしたスタンスが可能なのは、「生活世界」概念よりも「馴れ親しみ」概念(=〈馴染みのある/馴染みのない〉という区別)の方を基礎的なものとして採用したからだろう。つまり、これによって、
- 生活世界に「地盤」としての機能を認めることは拒否しながらも、
- 日常性、原初的秩序(環節分化)に関する議論において利用している
というスタンスが可能になっているのだと考えられる。
- 「馴れ親しみ」は、繰り返しが生じるところでなら どこにおいても・いつでも生じうる7ことに基づいて、その意味での普遍性を云々することができる一方で、しかし
- そうする際に、「その普遍性は 他の秩序の土台である」というヴィジョンの方は受け入れない
- 現象学関連の邦語文献では Vertrautheit は、「馴染み深さ」「親密性」「馴れ親しみ」「日常的な親しみ」などと訳されることが多い。
- 『信頼』本文では、「日常的な世界親密性 die alltägliche Weltvertrautheit」や「生活世界の親密性 Vertrautheit der Lebenswelt」といった あからさまにハイデガー風の表現も使われている。同様の理由で、〈不気味なもの〉なるハイデガー風の表現が「馴れ親しみ」と「信頼」に またがって使われている──そしてたとえば「他人の自由」が〈不気味なもの〉と表現されている──ことも注目に値する。
- ボルノウは「信頼」という論点を『気分の本質』(1945)や『新しい庇護性』(1955、訳書)で提出し、『教育的雰囲気』(1964)などにおいて更に展開した。同時代の信頼論としてボルノウとルーマンを並べて紹介している丸山徳次(2013)「「信頼」への問いの方向性」 (『倫理学研究』 43, 関西倫理学会)も参照せよ。
- 『信頼』の参照文献にボルノウは挙がっていないのだが。ただしボルノウが依拠した小児科医ニチュケ(Alfred Nitschke)──幼児の発育に対する信頼の雰囲気の重要性を強調した──への参照はあり(第1章注3)、この箇所で実存主義と信頼論の関係に触れた際にはボルノウのことも念頭に置かれていた、というのはありそうなことである。
- Niklas Luhmann, 1986, "Die Lebenswelt: nach Rücksprache mit Phänomenologen," Archiv für Rechts- und Sozialphilosophie, LXXII(2).(1998/2001「生活世界──現象学者たちとの対話のために」青山治城訳、『社会学理論の〈可能性〉を読む』情況出版)。
ちなみに、この論文では「生活世界」概念そのものの再規定=分解の提案まで行われている。ルーマンは、「生活世界」に関してフッサールが「地平」と「地盤」というメタファーを使用している点に注目し、「地盤でありかつ地平であることは同時にはできない」とメタファーの破産を指摘したうえで、「生活世界」概念を「地平機能」と「地盤機能」に相当する二つの規定に分解することを提案している (そしてまさにここで「馴れ親しみ」概念を使っているわけである)。- 「archaische」は、ここでは環節分化──親族構造によって規定された社会──を指すために使われている。たとえば『信頼』と同時期に書かれた『法社会学』第3章「社会の構造としての法」でも、「環節分化」「階層分化・中心周辺分化」「機能分化」という社会分化の3類型に対応して、次のタイトルをもつ三つの節が用意されている:
- Archaisches Recht
- Recht vorneuzeitlicher Hochkulturen
- Positivierung des Rechts
- この意味で、機能分化した社会においても「生活世界」的契機は残り続ける。たとえば 1975年に刊行された『権力』では、次のように言われている(下線は引用者による):
フッサール以来しばしば書きとめられてきたように、人間の事実的な共同生活は、日常の相互行為のなかではあえて問われることのない世界確信の土台の上で、まったく問題のないものとして進められるか、そうでなくても非問題化される。撹乱はあくまで例外である。通常は、共同生活の基礎やその続行の条件についてあれこれ気にかける必要はないし、行為を正当化したり、動機をことさらに作り出したり、提示したりする必要もない。それらが問題化したり、主題化することが全く排除されているのではなく、そういうことはつねに可能であり続ける。しかし、この非顕在的な可能性は、通常はすでに相互行為の基礎として満たされているのである。誰もがこの可能性に訴えない場合には、すべては正常であるという次第である。注目すべきは、引用文末尾において、現象学的な議論が「処理能力の限界」という観念のもとで捉え直されていることである。ルーマンの議論においては、この観念によって、現象学と行動科学──『信頼』の参照文献欄に登場するものでいえば、たとえばハーバート・サイモン、そしてその着想を行政学において展開した行動科学的予算編成理論──とが結びつけられる。
日常生活の生活世界的な性格のこうした基礎条件を廃棄してしまうことはできない。この条件は、意識的な体験 処理のための能力が限られているということに基づいているのである。
(ルーマン(1975→1986)『権力』第5章「生活世界と技術」(長岡克行訳、勁草書房)、訳書107頁)
新しい機能領域が分出するなどの変化がどのように生じるかという点に関心があるのですが、ルーマンがそういう議論をしているところがあれば教えてください。
「行為の連鎖」とか「行為がつながってまとまりが作られる」というのはどういうことなのでしょうか。たとえば「質問をして答えを貰った」とき、これは一つの行為なのでしょうか。それとも「質問をした」というのが一つの行為で、「質問をして答えを貰った」が行為の連鎖なのでしょうか。
あるいはまた「朝カル講座を申し込むために電話をしたら「~~にお金を振り込んでください」と言われた」という場合、その時点では「申込」は完了していません。では、お金を振り込んで初めて「申込」という「一つの行為」が成立するのでしょうか。
ルーマンの議論の中に「行為への分節化」に関する議論が極めて乏しい──困惑するほど乏しい──理由も、ここにあるのだと思います。つまり、その分節化は理論家の仕事ではない(=コミュニケーション参加者たち自身の仕事である)から──したがってルーマンは、それが自分の仕事だとは考えていないから──なのでしょう。
- 社会システムの構成要素は「コミュニケーション」であり、「行為」はコミュニケーションが抽象(=分節化、縮減)されたものである。
- 一方で、この抽象は──学的観察者ではなく──コミュニケーションの参加者たち自身が、〈意図・目的・動機・理由・原因 といったものを、動詞の主語 や 行為者カテゴリー といったものに帰属する〉という道具立てを使って 相互に行い合っていること(=帰属による行為の構成)であり、
- 他方で、そうした 要所要所での行為への抽象によってコミュニケーションは「流れる」。
人格信頼とシステム信頼はどう区別できますか。後者には前者も多分に含まれるように思われます。
「馴れ親しみ」と山岸の「安心」が似ているように思った。
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現行の『信頼』に書かれているのは次のようなこと。
しかし、現行の『信頼』からこのストーリーを読み取ることは難しい。
- 現代社会は、建前として、〈広がりと奥行きをもつ分節化された人格を備えた 自由な個人〉からなる社会(だと想定されている社会)である。
- [a] ここでの信頼について言えば、それは〈自由な個人〉を信頼することであって、これは現代社会における人づきあいの基本フォーマットの一つである。
- [c] 一方でそもそも、こうした〈自由な個人〉は、社会的分業のもとで成立するものだが、
- [b] 他方で 社会的分業は、個々人による非人格的秩序に対する信頼によって支えられている。
【引用文1】しかし、この解釈には二つの問題がある。
歴史的にも内容的にも、信頼はさまざまな形態をとる。原始的な社会秩序と文明化された社会秩序では、信頼は異なった様式をもつ。信頼は、(第12章「信頼と不信の合理性」訳書 175-176頁)
- [1a] 自然発生的に成立した人格的な信頼であったり
- [1b] 戦術的な洞察にもとづく人格的な信頼であったり、あるいは
- [1c] 一般的なシステムのメカニズムにたいする信頼であったりする。
【引用文2】この解釈のよい点は、
以下の章について予告しておくと、かかる[信頼がより大きな複雑性を処理しうる様式(=システム信頼)に向かって変化していく、という]推測は、以下の順序で素描される。
- [2a] 信頼は、まず日常的な世界への馴れ親しみを基盤として、さしあたり人格的な(したがって制約された)信頼である。この場合、ほかの人間の振る舞いに含まれる不確実性の要素は、対象[=物]の変化の予測不能性と同様に体験されるのだが、人格的な信頼は、そうした他人の振る舞いに含まれる不確実性の要素を埋め合わせる働きをする。
- しかし次第に、複雑化の必要が増大し、他者が他我として、つまり複雑性とその縮減を共同で[=間主観的に]引き起こす者として、視野に登場してくるようになると、信頼は拡大され、かの本源的な・問題の余地なき世界の馴れ親しみを押し退けねばならなくなる。
- しかし信頼は、かの馴れ親しみにとって変わるわけではない。信頼は、新たな種類のシステムへの信頼へと変化するのである。
- システムの信頼は、自覚的にリスクを冒してでも、可能なさらなる情報〔の収集〕を断念するだけではなく、〔諸種の差異に対して〕これまで有効であった無差別的な態度や、また目下採用されているところの結果の制御をも放棄することを含意する。
- システムへの信頼は、[2b] たんに社会システムに向けられるだけでなく、[2c] 人格システムとしてのほかの人間に対しても向けられる。信頼を実際に示す様式の内的な前提に注目するならば、信頼の基盤が、[2a] 第一次的には情緒的なものから、[2c] 第一次的には表現に結び付いたものに移行するのは、こうした変化に対応しているのである。(訳書37-38頁)
第3章最終段落 | 第12章最終段落 |
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そのとおりです。ルーマンの著作の脚注には おびただしい数の人類学分野の文献が登場しますが、特にそれが印象的な著作として次の二つを挙げておきましょう。 どちらも基本的にヨーロッパのことしか論じていませんが、しかしそれ(実定法やキリスト教)を人類学的知見の方から眺めるかたちの著作になっています。 またこの点については、第一回講義の補遺として記した 「『信頼』と現象学」も参照してください。なお三つ注記を付け加えておくと。という紹介がありました。では、これを論じる際に、ルーマンは どんな知見を参照しているのでしょうか。人類学でしょうか。
- 「馴れ親しみ」という術語は環節分化が優位な社会を特徴づけるために使われている
- 「環節分化が優位な社会」とは、歴史区分でいえば、「古代文明登場以前」に相当する
結局、「古代文明以前」はこの著作にどう関係するのかルーマンが
※グラフはイメージです。
紀元前1万年から西暦2000年までの世界人口。出典:Wikipedia「世界人口」
という紹介がありました。では、「社会よりの著作」というのにはどんなものがあるでのでしょうか。またほかの「個人よりの著作」にはどんなものがありますか。
- ルーマンは様々な著作で「個人と社会」という社会学の伝統的な問題に取り組んだが、『信頼』は そのうちの個人よりの著作だ
という紹介がありました。それではルーマンにとって、デュルケームの道徳の位置にあるものは、なんでしょうか。あるいは、そういうものはないのでしょうか。
- デュルケームにとって「道徳」(や「中間集団」)は、産業資本主義から生じる問題に対する解決策となるはずのものだった。
- ルーマンは、社会学的トピックとしての道徳の重要性は認めたうえで、それが解決策になるという発想は拒絶した。
「人格システム」という術語は1980年代前半に消え、それ以後「人格」は観察形式として位置づけられるようになった、というお話がありました。この「観察形式としての人格」というのはどういうものなのでしょうか。
多くの社会は 身支度の如何によって[その人について]何を予期しなければならないかを伝えるのであり、それ以上に人格という形式を必要としない。たとえば巡礼者の場合、衣服と振舞いをみれば 何を施さなければならないか判る。中世中期になって ようやく、かれらが懺悔をめざす本物の巡礼者であるのか、それとも巡礼街道における さまざまの喜捨を無料で得ようとするだけの旅人にすぎないのかという問題が切実になる17。ある種の目的のためには以前から 個別化された身体だけで十分だが、他の目的のためには それでは足りない。それに対応して、身なりを信用できるのか、どんな味方をすれば信用できるのかが変わってくるし、人格性を構成するために どこまで態度で示したり態度で調べたりしなければならないかも変わってくる。人格の その場その場でのコミュニケーションごとの在り方は、遅くとも17、8世紀以降、道徳の問題になる。これまでは、個人の身体的/心的なレパートリーの道徳的規律化に適合する気質や態度が要求されるにすぎなかったが、いまや、コミュニケーションの相手の人格を大切にすることが道徳的に要請される。個人の行動が ますます自由になるにつれて、他人の自己表出が社会的粉飾だと見抜きながら 見抜かれたと悟られないようにすることが、ますます重要になる。如才なさが決定的な決め手になり、(とくに自分に適用された)諧謔が多用され、安全弁として認められる。会話の要諦は、人格として好まれる機会を相手に与え、望むらく その相手が これに応ずる機会をもって報いてくれるようにすることである。しかも、そのために身体的態度ばかりでなく精神的態度の如何が重要であるからこそ、探査の可能性は──現実主義的に推測してよければ愛情に関する事柄においてさえ──きびしく制限される。その結果、「自然さ」が追求され、「信憑性」を示してみせる必要が生じたということは、こうした矛盾を証明するものでしかない18。 心的システムと人格を主体概念に集約して両者の区別をやめるような倫理学は、こうした微妙な関連を無視するか、それとも、不誠実だとして倫理的に軽視するものである。この問題について知りたいと思う者は、ゴフマンを読むのがよかろう 19。(邦訳『ポスト・ヒューマンの人間論──後期ルーマン論集』 村上淳一訳、東京大学出版会、129-130頁)19 いまでは古典的になったテクストとして、Erving Goffman, The Presentation of Self in Everyday Life, 2. Aufl., Gerden City, N.Y. 1959.[『行為と演技──日常生活における自己呈示』 石黒 毅訳、誠信書房、1974]
「ルーマンはアームチェア社会学者だ」という発言がありましたが、どういう意味でしょうか。
というお話がありました。本書を理解するために読んでおくべきゴフマンの著作があれば教えてください。
- 『信頼』という著作は、ジンメルとゴフマンでつくった社会学的な器に・社会心理学的な信頼研究の知見を盛ったものだ
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これは「期待」による定義であり、このままでは実験研究には使えない。それを実験に使えるように「行動」によって定義しなおしたものがこちら:【定義2】2ひとは、
- (a)何らかの出来事を予測・期待しており、
- (b)他者の振る舞いが
- (c)期待通りだとポジティブな結果、期待に反するとより大きなネガティブな結果が生じる ような場面で
- 予測・期待にもとづいて行動するとき、
「信頼」している。
しかしこれだと、通常「信頼」だと考えられているものより遥かに多くの事柄が含まれてしまう3。そこでドイチェは、この広すぎる【定義2】から出発して 狭い【定義1】に相当する「(狭義の)信頼confidence」を取り出すことを目指して、セッティングを様々に変えた実験をおこなった。それとともに「リスク」、「賭け」、「希望」などといった信頼に類縁的な概念との違いなどについても検討したのだが、ルーマンは特にその点を参考にしている。
- 自分の行動の結果がポジティブにもネガティブにも転びうる曖昧な状況で、
- 結果が他者の行動に委ねられていて、
- ネガティブな結果の方がポジティブな結果よりも重大なものであるとき、
- その行動を取るのが、信頼行動trusting choice
主張の骨子 | ||
1968年 | 『信頼』 | 「馴れ親しみ」が過去指向であるのに対し、「信頼」は未来指向である。 |
1974年 | 『法システムと法ドグマーティク』 | 全体社会の〈過去指向〉から〈未来指向〉への転換にあわせて、法解釈学の中にもこれに相当する語彙(危険、リスク、信頼など)が登場した。 |
1991年 | 『リスクの社会学』 | 「リスク」概念は、かつては一部の冒険的な航海者などにしか関係がなかったのに、いまでは誰でもが使うようになっている。それは、「現在何をするかは未来に何が起こるかを左右する」という観念がカバーする事柄がどんどん増えているから(たとえば結婚がそうであるし、またいまでは自分や子供の人生も「デザインする」ものになっている)。 |
ルーマンが「信頼は不合理なものだ」という時、どういう基準で言っているのでしょうか。
システム合理性がどういうものなのかについて更に敷衍したルーマンや他の研究者の論考があったら教えてください。
限定合理性とシステム合理性との関係はどういうものでしょうか。
ルーマンの用語法からはD・イーストンの政治システム論が想起されます。また文献リストにはエーデルマンの『政治の象徴作用』も見えます。ルーマンと50-60年代のアメリカ政治学との関係はどのようなものなのでしょうか。
ルーマンは信頼論の中味についても、ジンメルやデュルケムから示唆を受けているのでしょうか。
筆者はルーマンの議論の限界が、次の点にあるように思う。[…]彼のシステム理論の枠組のみでは、教育者と被教育者との間で展開される人間的関わりやそこから生起する教育作用の人間学的意義を十分に把握しきれないということである。すなわちボルノーは、教育者の被教育者に対する信頼を究極的に支えるものが、「存在への究極的信頼」という宗教的な感情・確信であることを提起している。あらゆる困難や挫折を乗り越えて、最後まで忍耐強く被教育者の成長を求めて彼らを信頼していく確信は、「単なる決意によってもたらされるものではなく、自己自らが、個々の信頼に際して、あらゆる個々の幻滅の彼岸に常在する、包括的な存在と生への信頼によって支えられていることを知っている者にのみ、姿を表してくる」ことをボルノーは指摘しているのである。
筆者はこのボルノーの議論が、教育者の日常的な実践を内面で支える内容をもち、その教育理論としての妥当性を認識しているのであるが、 ルーマンの機能主義的な信頼をめぐる議論からこのような内容を引き出すことはできない。(121頁)
しかしながらここで注意しなければならないことは、ルーマンが宗教の問題、人間の生を超越したレベルの問題を、考察の対象から外してしまってはいないということである。[なぜならルーマンは宗教論も書いているからである。]「ルーマンの機能主義的な議論」から、信仰や宗教的確信に関する議論や人間学的視点などは出てくるはずがないのか、それともそうではないのか。著者は筋の通った見解を得ることができなかったのでしょう。そしてこのことが意味するのは、ルーマンの議論は、ボルノー的な観点からすれば繋がっているものを断ち切り・繋ぐことが出来ないものを繋ぐ仕方で作られている、ということなのだろうと思います。そして/しかし、本当ならば著者は、まさにその違いこそを この論文で論じるべきだったのではないでしょうか。
したがって「複雑性の縮減」という視点から展開されるルーマンの「信頼」論および宗教論の帰結から、「信頼」という感情を「希望」とともに人間を究極的に支えるものとして規定したボルノーの人間学に通じる認識を見出し得るのであり、[…]ルーマンのシステム論における人間学的視点がボルノーの人間学の帰結を補強していると言いうるのである。(121-122頁)
「計画化を進めるとより信頼が必要になる」というときに必要となる信頼とは、その計画化を進めるシステムに対する信頼でしょうか。