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作成:20167021 更新:20180524
この頁には、2016年10月から12月にて朝日カルチャーセンター新宿にて開催する「ルーマン解読4」講義における質疑応答などの一部を収録しています。 高橋徹さんによる著作紹介、講義当日の応答の再録と、講義後にいただいた質問に対する回答が含まれており、署名のない項目はすべて酒井によるものです。
概要 |
第一回講義(201610.05) |
第二回講義(2016.11.02) |
第三回講義(2017.01.11) |
ルーマンの最晩年にあたる1995年に刊行された本書は、放送局の依頼に応じて1994年におこなった講演ノルトライン・ヴェストファーレン州の科学アカデミーで行った講演の講演録(1995年) がもとになっています。
一方で本書は、「我々はどのような現実のなかで暮らしているのか」に関する判断材料を、他に凌駕・匹敵するもののない仕方で与えているマスメディアという制度に照らして・その観点から、現代社会のあり方を描こうとしたものであり、この点で『社会の理論』シリーズと同様の課題を持った著作だといえます。
他方で、「社会の理論+社会構造とゼマンティク」という著作群が「近代化」をテーマとし、それを主として概念史から素材を借りて論じようとしていたのと比べると、本書にはそうした性格は薄く、またそもそも「ゼマンティク」なる術語自体がほぼ登場しません。代わりにその位置には、(「スキーマ」「スクリプト」などといった)認知科学から取り入れた術語群が置かれています。
こうした事情に鑑みて、本講義では、
ポイントになるのは、マスメディアが二重のリアリティを構成しているという点です。普通、マスメディアがリアリティを構成するといえば、マスメディアが描く現実のこと(例えば、「少年犯罪が凶悪化・激増している」といったこと)を思い浮かべると思います。そのこともこの二重性に含まれるのですが、ルーマンがまず着目するのは、マスメディアが現実のコミュニケーション過程(システム論の表現を使えば「作動」として)として構成されるという点です。これは、マスメディアの経験的な営みをどのように捉えるか、という課題だといえます。こうした課題は、一般のメディア研究では、放送制度や各国のメディア環境(有力紙・局の傾向やオーディエンスの数など)、あるいは具体的なイシューをめぐる報道のディスコースなどを実証的に調べたりすることで研究の遡上に上ることが多いと思いますが、ルーマンはこの課題に社会システム論化されたコミュニケーション論のアプローチで取り組みました。
第二の論点は、マスメディアの「観察」によってリアリティがどのように現れるのか(マスメディア自体にとって、またそのオーディエンスにとって)という問題です。このようなマスメディアによるリアリティの構築という論点は、W・リップマンの古典的な「疑似環境」論を引き合いに出すまでもなく、メディア論に少しでも関心を持たれたことがある方にはなじみ深い論点だと思います。この問題に取り組むには、「観察者」としてのマスメディアが何をどのように観察・記述しているのかを再記述する道具立てが必要になります。そのために、ルーマンは自身の社会システム論を基本的な枠組みとしながら、マスコミュニケーション研究、メディア研究において用いられる「ステレオタイプ」「スキーマ」「フレーム」といった術語を自身の議論に組み込もうという姿勢を示しました。
Q01に対する回答で述べたように、ルーマンはマスメディアが二重のリアリティを構成しているという視点をいわば本書の出発点に据えました。第1の論点(マスメディアの作動)について、ルーマンはマスメディアを社会のなかで特定の役割を担い、かつ独自の論理で作動するシステム(機能システム)として描くことで、マスメディア論をいわば社会理論の土俵に載せました。その理論的な道具立ては、政治や経済、科学のような他の領域に適用されたのと同様のもので、マスメディアのコミュニケーションを独自のものたらしめるコード(主導的な区別)を軸とするものです。平易に述べるなら、そのコードはオーディエンスの注意や関心を集める新奇性の有無だといえます。興味深いのは、ルーマンがマスメディアの内部にそのような新奇性を追求する3つの領域(プログラム領域)を見いだしている点です。簡単にいえば、報道・広告・娯楽の3領域です。報道はその内容の真実性をベースにして新たなもの(ニュース)を日々追求します。広告は、商品やサービスをオーディエンスに訴求したいという明確な意図のもとに訴求内容の新奇性を伝えようとします。娯楽においては、マンネリ化を回避しながら(つまりは新奇性を再生産しながら)日常を忘れるひとときの楽しみを提供します。実際のマスメディアの作動は、これらの諸領域の営みからなる複合体ですが、先ほどこうした3領域の区別をルーマンが自身の理論に持ち込んでいることを興味深いと述べたのは、実際にはこれらの領域にまたがる境界例ともいえそうなケースが散見されるからです。
たったいま説明したマスメディアのコードや新奇性の追求は、それ自体がマスメディアが何をどのように観察するかを規定している限りにおいて、第2の論点(マスメディアの観察)とも重なっています。そこで重複を避けるために、第1の論点でふれた内容を避けて、もう一つの重要な論点に着目することにします。マスメディアが、その性格から特定の専門知識を前提としない一般オーディエンス向けのコミュニケーションに指向していることは明らかです。生活に忙しく飽きっぽいオーディエンスに対して、マスメディアはどのようにその伝達内容を記述すればよいでしょうか。社会システム論の枠組みでいえば、これはコミュニケーションと意識のカップリングの問題と位置づけられますが、この関係を記述するためにルーマンは認知心理学に由来するスキーマ概念を自らの議論に取り込みました。スキーマは、ある事柄をあるものとして直観的に理解させる働き
マスメディアの問題といえば、マスメディアによる「世論操作」の問題に関心を持つ方もいるかもしれません。因果的な図式に落とし込めば、
それでは、マスメディアのコミュニケーションがオーディエンスの考え方を直接左右するような因果関係を仮定することを除外するルーマンの枠組みを一つの補助線として使うと、何が見えてくるでしょうか。一ついえることは、「マスメディアが世論を操作している」というテーゼそのものが一つの「スキーマ」である、という可能性です。スキーマは対象を理解する観察者の側が用いる図式です。したがって、ルーマンの枠組みでみたとき、問題の立て方は「マスメディアが世論を操作しているか否か」ではなく、「マスメディアが世論を操作している」というスキーマがなぜ稼働するのか、その社会的条件は何かという形に組み替えられることになります。
実はルーマンは、観察者の観察図式とそれを規定する社会的条件に関する研究を知識社会学的研究(例:『社会構造とゼマンティク1・2・3』、『情熱としての愛』)として残しています。もっとも、それらの研究において問題になったのは主に書物に書き記された諸観念・概念であって、スキーマではありません。スキーマ論をマスコミュニケーション研究に導入したD・A・グレーバーは、マスメディアからの情報の洪水にさらされる現代人の情報処理を研究するためにスキーマ論に着目しました。本書『マスメディアのリアリティ』の議論も、そうした現代の情報環境を前提として共有しています。したがって、本書の議論を補助線として現代的なテーマについて考察することは興味深い思考実験になるでしょう。
最後に一つ、そうした考察の一例にふれておくことにします。例えば、皆さんの目には2005年のいわゆる「郵政選挙」の際に演じられた「小泉劇場」はどのように映るでしょうか。「小泉首相が巧みなパフォーマンスでまんまとマスコミと有権者を踊らせた」と捉えるなら、わざわざルーマンの著作を読む必要はありません。ここでは詳細は省きますが、この問題を考えるには、独自の機能システムであるマスメディアと政治システムの相互関係、さらにはマスメディア内部に同居するプログラム領域の相互関係の視点を交えたケーススタディが必要になります。講座の担当回では、この点についてもお話しして、皆さんがご自身の関心で本書の枠組みを使ってケーススタディを試みるためのヒントを提供できればと思っています。
I. はじめに II. 『マスメディアのリアリティ』の構成
マスメディアの二重のリアリティ[第1章]
(1) 経験的な現象としてのマスメディアのリアリティ
(2) 構成された現実としてのマスメディアのリアリティ
①報道(ルポルタージュ)[第5章]
②広告[第7章]
③娯楽[第8章]III. ケーススタディ:小泉政権時代のメディア政治
(1) 小泉政権・略史
(2) 小泉政治をめぐる2つの問い
①政治の道徳化?
②政治とメディアの「共犯関係」?
(3) 小泉の政治戦術とマスメディア
(4) 新聞記事みにる「刺客」の流布過程
(5) インプリケーション
①「報道」と「娯楽」の境界線
②マスメディアと道徳の関係
③言説の道徳化がもたらす副作用IV. おわりに
マスメディアは、①報道(ルポルタージュ)、②広告、③娯楽 に区分できる、というお話がありましたが、娯楽と報道をどう区別できるのか疑問を持ちました。たとえば、スポーツ番組は娯楽でワイドショーは報道だろうと言われましたが、スポーツに関する情報はニュース番組でも扱われ「事実」として報道されますし、ワイドショーでは「事実」かどうかも分からないような情報が扱われます。三者の区別についてもう少し解説してください。
高橋さんは論文で、「政治システムにおいては──個々人による投票ではなく──世論が、経済システムにおいては市場を観察することがセカンド・オーダーの観察である」といったことを書かれていました。一般的にこうしたことはマスメディアを経由してしか行えないだろうと思います。
他方ルーマンは、本書の最後の方では ほとんど、マスメディアではなく、セカンド・オーダーの観察の話に終始しています。
セカンド・オーダーの観察とマスメディアの関係というのはどういうものだと考えればよいのでしょうか。
第5-7段落に登場する「二つのリアリティ」のうち、「マスメディアが構築するリアリティ」(二つめのリアリティ=第7段落)の方は理解できたのですが、一つめの方、「マスメディアというのはどのようなプロセスで生じているか」が分かりません。なぜこれが「リアリティ」と呼ばれるのでしょうか。ルーマンはどういう意味で「リアリティ」という語を使っているのでしょうか。※参照箇所([ ] は段落番号):
ここで述べられていることの骨子は、[05] マスメディアのリアリティ──そのリアルなリアリティ、とも言うことができるが──はそれ自身のオペレーションにおいて成立している。印刷されたり放送されたり、そして読まれたりしていることがそうである。送信されたものは受信される。そこには、その事前の準備、ならびに事後にそれについて語る、 というような類の無数のコミュニケーションが絡んでいる。…
[07] … マスメディアのリアリティについては、もうひとつ、二番目の意味において語ることができる。つまり、マスメディアにとって、あるいはマスメディアを通じてその他のものにとって、リアリティがいかなるものとして立ち現れるか、という意味においてである。…この理解によれば、マスメディアの仕事は、単に一連のオペレーションとしてだけではなく、一連の諸観察として捉えられる。もっと正確に言うならば、観察しているオペレーションである。
マスメディアに対するこの理解に到達するためには、その観察を観察しなければならない。一番初めに紹介した理解の仕方であれば、事実が問題とされるだけで事足りるファースト・オーダーでの観察のレベルで十分である。二番目の理解の仕方では、セカンド・オーダーでの観察者という見地を取り入れなければならない。つまり観察者を観察する者という立場である6。
逆にいうと、この引用箇所はこのくらいのことしか言っていないのですが、しかしルーマン先生、文章が驚くほど ほんとうに下手ですね。
7段落で、本書の出発点として、「マスメディアは、自己言及と他者言及を区別するシステムだ」というテーゼが述べられていますが、これはどういう意味でしょうか。※参照箇所:
[07] … マスメディアのリアリティについては、もうひとつ、二番目の意味において語ることができる。つまり、マスメディアにとって、あるいはマスメディアを通じてその他のものにとって、リアリティがいかなるものとして立ち現れるか、という意味においてである。
[08] この区別をはっきりさせるためには、私たちは(常に観察者に関係づけて)一番目のリアリティと二番目の(あるいは、観察された)リアリティについて語ってみることができる。私たちはいま、マスメディアという観察されているシステムで起こっている、リアリティの二重性を観察している。そのシステムは実際にコミュニケーションを──何らかのことについて──している。何らかとは、何か別のことについて、あるいは自分自身について、である。つまり、それは自己言及と他者言及とを区別できるシステムだということである。
古典的な真理論では、あるいは真理をめぐる日常的理解においても、関心が集まるのはメデイアが報道することが正しいか正しくないかということである。あるいは情報操作されているので、半分ぐらい当たってはいて、半分ぐらいは正しくないのではないか、という点にも関心が集まる。しかし、そんなことをどうして確かめることができようか。個別のケースでは、ある観察者たちにとっては、またとくに報道される側の諸システムにとっては、可能であるかもしれない。しかし毎日駆け抜けていく大量のコミュニケーションにおいて、そんなことはできはしない。私たちは、 この問題を以下の考察において一買して除外しておきたい。私たちが準拠する出発点は、マスメディアが観察するシステムとして自己言及と他者言及を区別する必要がある、ということなのである。
- [D1] 或るコミュニケーションは、
生じる。
- 既に為された・それに接続しうるコミュニケーションを踏まえた仕方で、
かつ- これから生じうる・それに接続しうるコミュニケーションを見越した仕方で
となりますが、ルーマンは、この事態を指示する際に(も) 「自己言及」3という術語を使う、というわけなのでした4。
- [D2] システムの或る要素は、同じシステムに属する別の(可能な)要素たちへの参照のもとで生じる
マクルーハンなどに代表されるメディア論には、新聞、ラジオ、テレビなどを支えている技術的・物質的なものが、人間の感覚やコミュニケーションに影響を与えてきた という、ある種の技術決定論的なスタンスがありました。他方、ルーマンの場合、たとえば 5-6段落や14段落を見ると、技術自体を決定的な影響とはみなしていないようにも思います。技術的なものに対するルーマンの捉え方はどういったものだったのでしょうか。※参照箇所
[05] マスメディアのリアリティ――そのリアルなリアリティ、とも言うことができるが――はそれ自身のオペレーションにおいて成立している。印刷されたり放送されたり、そして読まれたりしていることがそうである。送信されたものは受信される。そこには、その事前の準備、ならびに事後にそれについて語る、というような類の無数のコミュニケーションが絡んでいる。しかしその伝播のプロセスは、技術の裏付けによってのみ可能である。そのオペレーションの仕方が、マス・コミュニケーションとして可能になるものを構造化し、区切っている。これはあらゆるマスメディア理論において注意が払われるべきことである。とはいえ、こうした機械の仕事や、 もっと言うならばメカニカルな、あるいはエレクトロニカルな内部の仕組みをマスメディア・システムにおけるオペレーションであるとは見なさないでおきたい。システムのオペレーションを可能にする条件となっているもののうち、すべてが必ずしも一連のシステムによるオペレーションの進行の一部であるとは言えない。…
[06] 技術的な装置、つまり「コミュニケーションの物質性5」については、その重要さはもっともではあるが、伝達されるものではないので、コミュニケーションするというオペレーションからは除外することとする。しかし、(理解ないしは誤解される)受信については、その概念に含むことにする。…
[14] … 輪転印刷技術の発明は、決定的な幕開けではなく、効果を強化するためのひとつのステップに過ぎない。というのも、マスメディア的効果の観察と批判は、それよりずっと以前からすでに一般的に行なわれていたからである11。必要なのは歴史的により広がりをもった観察の期間であり、原則的には、印刷メディアが効力をもつようになる時期にまで遡る。そしてなによりも、マスメディア理論を近・現代社会の一般理論のなかに組み入れていくうえで、十分に抽象的な理論的道具立てが必要となる。…
社会学に不要な議論だと思いますし、付き合うだけ時間の無駄だと思います。本講義シリーズでも一度も取り上げていません。
【内部環境】 milieu intérieur; internal environment
動物体内の体液を,それが安定的に維持されているという含みをこめて,内部環境という。体外を囲む本来の環境に対して,体内ではあるが,体を構成する器官や細胞にとっては体液が直接にそれらを囲む環境となっていることから,フランスの生理学者 C.ベルナールがこの考えと用語を用いた (1865) 。[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]
- [1a] 公共圏とは、社会内部にある あらゆるシステム[それぞれ]の境界の反省[のメディア]として定義することができる。
- [1b] 別の言い方をするならば、社会的部分システムの社会内部環境として(つまり、すべての[対面的]相互行為、組織、社会的機能システム、社会運動の環境として)定義することができる。
- [1c] 「市場」は、経済的な組織や相互行為の周囲にある経済システムの内部環境であるし、
- [1d] 「世論」は、政治な組織や相互行為を囲む政治システムの内部環境である。
- [1e] システムが、いかに、誰によって観察されているかについて確実でないままに、外から観察されているということを反省するならば、それは自己自身を、公共圏というメディアにおいて、観察可能なものだとして把握していることになる。
- [1f] そのことは…公共的なものとして通用可能な観点へ照準を合わせることにつながる。
- [1g] 機能的に同等な戦略としては、…
- [1h] …
- [1i] 公共圏とはつまり、社会的な反省の一般的なメディアであり、このメディアは…観察の観察を記録していくのである。
まぁ読んでも何を言っているのかわかりますまい。順を追って解説していきます。
[1e] システムが、いかに、誰によって観察されているかについて確実でないままに、外から観察されているということを反省するならば、それは自己自身を、公共圏というメディアにおいて、観察可能なものだとして把握していることになる。
第13章[スライド13]に関する質問です。もし質問が出なければ自分で言わないといけないかと思っていた論点なので、質問していただいてたいへんありがたいです。この論点は邦訳訳者あとがき196頁(4-5行目)でも取りあげられていて、ルーマンは「機能システムは並列的で、上下関係はない」と述べるわけですが、スライド13を見ても、マスメディアは他のシステムの前提を与えており、したがって他の機能システムよりもより基礎的な位置にあるように思えます。西垣通さんも「マスメディアは他の機能システムに対して超越的な位置にある(メタ社会システム)」という主張をしていたかと思いますが、この点についての酒井さんの見解を教えてください。スライド12: c. マスメディアの機能1 第9章 p.100-101
- 社会生活を、コンセンサス抜きに・多様なままに整序するための前提を与える。
- 旧来の議論: 権力の監視、現実の歪曲 (←情報内容の正しさを論じている)
- ルーマンの議論: 社会秩序の基層の構築
- 「マスメディアの社会的機能とは…情報の総体にあるのではなく、情報によって作り出された記憶の方にある。」
- マスメディア自体は情報価値によって活動をコントロールしているが、それがマスメディアの機能ではない。
- 経済の機能: 富の産出ではなく、希少なものの分配
- 政治の機能: 権力の所持ではなく、決定の産出
- マスメディアの機能: 情報の産出ではなく、社会生活の背景的前提の産出
- ※どうやって?(本書前半部分)
- パッケージ化された情報の大量頒布
- 相互作用の遮断=不特定多数への直接の伝達、受け手への無反応=選択的反応
- スキーマの提供:e.g.事件の個人的行為への還元、現象の道徳的評価
スライド13: c. マスメディアの機能2 第13章 p.143-151
- [146] マスメディアは、社会に広く受け入れられていて、また個々人にも知られるところともなっているような ある一つの現在というものを、すべての機能システムに対して保証している。
- 「現在」:過去の選択/予期の確定 を前提できるもの
- [146] マスメディアは、一方でコミュニケーションを吸い取りながら、他方で後続するコミュニケーションを刺激する
- [147] 社会秩序とコンセンサス
- 社会の安定性(再生産能力)は、後続のコミュニケーションにおいて前提となることができる「物」━━というコミュニケーションの沈殿物━━の生成を基盤にしている。
- 「物」へのアクセスは、それに賛成するか否か、同意するか否かを表明することを必要としない。
- 現代においては、こうした「物」の存立にマスメディアは不可欠である。