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作成:20180621 更新:20190121
この頁には、2018年10月から12月に朝日カルチャーセンター新宿にて開催する「ルーマン解読8」講義における講義概要や質疑応答などを収録しています(「ルーマン解読」講座全シリーズの紹介)。 馬場靖雄さんによる著作紹介、講義当日の応答の再録と、講義後にいただいた質問に対する回答が含まれており、署名のない項目はすべて酒井によるものです。
概要 |
第一回講義(2018.10.3)
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第二回講義(2018.11.7) |
第三回講義(2019.1.16) |
「ルーマン解読」連続講座の最終回として、1992年に刊行された論文集『近代の観察』を取りあげます。1980年以降、ルーマンは自らの研究人生の集大成となる2つの著作シリーズ(社会の理論+社会構造とゼマンティク:計13巻)を続々と刊行していきましたが、この論文集は、その真っ最中(1990-91年)に行われた一連の講演を元にしたものです。
論文集全体のテーマは──ギデンズの著作の邦訳タイトルを借用すれば──「近代とはいかなる時代か」であり、上掲2シリーズを補完するとともに、それらを理解するための補助線を示してもくれます。ただしルーマンは、先の問いに対して「この問いには答を出すべきなのか/そもそも出しうるのか」との疑念も提起するのですが。
なお、これまでの講座を受講されていない方も、問題なく受講していただけます。
これまで本講座に参加し、あるいはルーマンの著作ないし紹介文献を繙かれたことのある皆さんなら、ルーマンは全体社会(Gesellschaft)の主要な分化様式を「環節分化/階層分化/機能分化」の三つに区分しており、18世紀西欧に始まる近代社会は、機能分化によって特徴づけられる云々と(一応は)主張しているのをご存じでしょう。このテーゼは社会学の世界である程度「定説」として受容されると同時に、特に近年では厳しい批判に曝されています。
ITの普及・進展とグローバル化が急速に進みつつある現代は、もはや機能分化(とりあえず、経済、法、政治、科学 …… の「専門分化」と考えておいてもよい)という視点では捉えられなくなっている。今や、一度は分化した各領域が複雑に絡み合い、融合する新しい社会編成原理を考えねばならない云々。本書は「セカンド・オーダーの観察」「偶発性」等のルーマン理論の鍵概念を駆使しつつ、すでに早い段階から登場してきたこの種の批判に応答することを通して、ルーマンなりの近代社会理解を明らかにしようとするものです。
ルーマンは「機能分化体制としての近代社会は終焉を迎えつつあり、今やそれに代わる新たな社会構想が求められている」といった類の議論を退けます。そのそも「機能」とは、或る問題に対する等価な代替選択肢を探究する思考法・コミュニケーション様式を意味しており、したがって「機能分化に取って代わる新たな秩序の登場」という発想自体が、機能に定位した社会編成原理を前提にする/そのような社会編成を導くものに他ならないからです。したがって機能分化の「次」はありません。近代社会の編成原理である機能分化は或る意味、ヘーゲル=コジェーヴ=フクヤマが提起したように、「歴史の終わり」に他ならない。ただし「大きな物語の終焉」「歴史の終わり」に対してすでに早い段階から批判されてきたように、この種の主張は根本的なパラドックスを孕んでいます。「もう次はない」という指摘自体が、新たな時代の、新たな体制の到来を示すメルクマールとして呈示されてしまっているからです。
ルーマンが本書冒頭から、一時期リオタールなどの名とともに喧伝された「ポストモダン」論に対してアイロニカルな態度を示しているのも、まさにそれゆえにです──リオタールの『ポストモダンの条件』の中では、新たな社会秩序像を先駆的に示す論者の一人として、ルーマンが(ある程度)肯定的に援用されているのですが。
私たちの生活が、社会が、世界が、急速に変化しつつあるのは、誰しも認めるところでしょう。先にも述べたように、現在生じている社会と世界の大転換の兆しとしてよく挙げられるのは、ITの進展と普及、グローバリゼーション、テロとゲリラ戦の蔓延、少子高齢化、地球環境問題の深刻化、などでしょう。これらの個々の問題が深刻化しているのみならず、それらの相乗効果によって、私たちが所属する人類の状態そのものが何らかの臨界点に達して、大いなるカタストロフィが、あるいは変革の時が訪れるのではないか。こう思われてくるのは、むしろ自然なことでしょう。そのような予感を表現するために最近でもしばしば用いられるのが、「パラダイムシフト」や「シンギュラリティと」いった語彙群です。これらの語彙が盛んに口にされ、論じられているのをみれば、私たちは、木村敏が統合失調症患者の精神状態を記述するために用いた表現を借用するならば、「アンテ・フェストゥム」(ante festum=祭りの前)状態の真っ只中に置かれていることがわかります。
来たるべき祭り(大いなる転換の発生)に備えて/祭りを乗り切るために/祭りの到来を促進するために何をなすべきが。もう一つ、フランスの作曲家オリヴィエ・メシアンの楽曲のタイトル(ミサ通常文に基づく)を借用すれば、ワレラ死者ノ復活ヲ待チ望ム(Et exspecto resurrectionem mortuorum.)──今現在「常識」「当然のこと」として世に君臨しているものがまもなくその地位から追い落とされ、すべてが新たな審判に服するはずだ云々。それが、ルーマンをはじめとする「グランド・セオリー」に──「そんなものは役に立たない」と揶揄されながらも──何らかの関心を抱き続きている私たち(少なくとも、この講座に参加されている皆さん)の心象風景ではないでしょうか。
このアンテ・フェストゥムは未来へと開かれた、期待と不安が充満する、生じつつある変革に自分も参与しているという「選ばれてあることの恍惚と不安」
(これは、太宰治が引用したヴェルレーヌの言葉でした)を実感できる、ある意味ではすばらしい時間であるとも言えます。しかし同時に私たちは、祭りなど永遠に到来しないのではないかという密かな不安に苛まれてもいないでしょうか。世界は変化し続けている──しかし「常に変化する」というこの状態が、このまま何ら変化することなく永遠に続いていくのではないか。どんな新しいことが起ころうとも、決定的な突破口などもたらしてはくれないのではないか。私たちは、アンテ・フェストゥムの中に閉じ込められてしまっているのではないか。来たるべきものへの期待と願望だけが常に増幅されてゆき、それらがか叶えられることは決してない.そしてその結果、焦燥感だけがいや増していく──近代社会学の創設者の一人であるエミール・デュルケームは、近代社会特有のこの状態を「アノミー」と呼んだのでした。ボードレールが短い、しかしきわめて示唆に富む批評の中で(「現代生活の画家」)、近代社会を常に変転していく生活様式として捉えた上で、その不安定性からの救済を、科学技術の進歩などではなく芸術の内に求めたのも、同じ問題意識に基づいてのことでした。私もまた同様の疑念を拭いきれないがゆえに、「シンギュラリティ」といった語を無条件に使用する気にはなれないのです。
本書は決して、近代を超える新たな展望を呈示したり、各人がそのような展望を抱きうるためのヒントを与えてくれるものではありません。しかし性急に「新たなもの」を求めるのではなく、一歩立ち止まって変わりゆくものと変わらないものとを弁別し見極める作業も、激変の最中に居る私たちには必要なのではないでしょうか。
「われらに、変えうるものを変える勇気を、変えることのできないものを受け入れる智慧を与え給え」──これはアルコール依存症からの回復を目指す自助グループで用いられているスローガンだそうです(「ニーバーの祈り」と呼ばれる)。本書を読み解くことによって、そのような勇気と智慧の一端を会得してもらえればなどと、不遜な希望をも抱いている次第です。
馬場講義 |
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- 本日の講義で「技術」に関する議論に相当するのはレジュメのどこだったのでしょうか。
- 何らかの特定の機能システムの優位や機能システム間の関係について、ルーマンは何か言っているでしょうか。
- [1-5] 近代特有のコミュニケーション布置(象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアはその中核部分の一つである)を特徴づけるのは、ある限定的な観点の下で、普遍的な適用範囲を持つコミュニケーションが組織されるという点である。 近代社会の特徴づけとしてしばしば提起される、「技術優位の社会」という論点も、その一側面として理解されうる。本書第1章Ⅱ節の議論を確認しておこう。
両者とも、それぞれの機能システム(経済と科学)固有の「度外視して」によって、(原則的には)あらゆる事象を扱いうる、それが各システムが作動していくための前提であるという点に注目し、それが社会を、生を引き裂く不当な暴力であると告発しているわけだ。正当か否かはともかくとして、この「度外視して」と引き換えに円滑な作動をもたらすのが、「機能する単純化」としての「技術」(技法)の特性である。すなわち技術とは、機能的な=限定的かつ普遍的なコミュニケーションの編成技法に他ならない。
- マルクスの議論の要諦は、資本主義社会においては「支払い/不支払い」という限定的な観点の下で、物と労働力の差異を度外視して、収益計算の下で経済活動が編成される、という点にある。
- フッサールの近代科学批判においても矛先は、科学が諸現象がもつわれわれの生との繋がりを度外視して (=無視して。ガリレオは発見する天才であると同時に隠す天才でもあった云々)、数式によって(さらに限定的な「真/非真」コードを通して)記述を行うことに向けられている。
- [1-6] この普遍的に働く「度外視して」は機能システムのコードによって、「合法/違法」(法)、「支払い/不支払い」(経済)、「与党/野党」(政治)、「真/非真」(科学)、「適合/不適合」(芸術)等によって、導かれる。これらの諸コードのリストは、ローマ法学でいうparttitio(列挙)であってdivisio(分割)ではない。分割されるべき「全体」があらかじめ存在しているわけではなく、むしろ全体社会Gesellschaftは、それぞれの限定=コードを通して事後的に現れてくるからである。
- [1-6a] この「全体社会」は、それぞれの閉じられた (当該コードを踏まえたコミュニケーションのみから成る)機能システムによって構成された「全体社会像」であり、それら全体社会像も含めた諸機能システムの総体が、「物自体」ならぬ全体社会自体(Gesellschaft an sich──BBによる造語)を形成する。かくしてルーマンにおいて、全体社会は二度現れてくることになる。法から見たGesellscaftは、種々雑多な利害の集積であるが(利益法学)、それは「法的に保護されるべき利害/保護されえない利害」という(つまりは、「合法/違法」)という区別を通して姿を現してくる。「社会の法Das Recht der Gesellschaft」とは、「社会自体の(一部としての)〈法とその社会像〉」という意味だと解しうる。「社会の社会」とは、「社会自体の(一部としての)諸全体社会像」を意味している、と。
- [1-7] このように、Gesellschaftは各機能システムごとに異なる相貌において登場してくる。そしてそれぞれのGesllschaft像に即して、近代社会を特徴づけることもできる。
それぞれが「近代社会はいかなる社会か」という問いに、独自のかたちで答えようとする。
- 法から見れば近代社会は実定法によって規制された社会であって、そこでは法こそが中心的な役割を果たす。
- 経済から見れば近代社会とは(新自由主義が極端なかたちで描いて見せたように)何よりもまず市場取引によって回転していくのであって、経済の優位性こそが近代社会の特徴に他ならない。
- 科学から見れば現代社会は真なる(科学的な)知とそれに基づく技術の優位によって特徴づけられる。
- [1-8] この事態を「機能分化」という観点から捉える社会学から見れば、どれかの答が、ではなく、複数の答がそれぞれに普遍的な射程を伴いつつ妥当しているということこそが、近代社会の特徴をなしている。 この複数の統一性 (それぞれの機能システムからの近代社会の把握)の併存こそが、あるいは「大文字の統一性」の不在こそが、「近代社会は機能分化した社会である」ということの含意に他ならない。
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今日、過去の講義を振り返ったパートでは、『制度としての基本権』『信頼』『権力』で一つのまとまり、『目的概念』『法システム』『リスク』でもう一つのまとまり という形になっていたのでしょうか。
- 生の哲学やプラグマティズムと実存主義、それとルーマンとの関係について教えてください。
- ルーマンは生の哲学やプラグマティズムに対してどのようなことを述べているのでしょうか。
このシリーズ講義では、「システム論」をまったく使わずにルーマンの紹介が行われてきましたが、今回は、最終講義だということで、システム論に関するまとまった紹介とコメントがあり、そのなかで「マルクス主義や構造主義は なぜシステム概念を必要としないか」についても紹介されました。 しかし、ルーマンの「全体社会の下位分化」論も、マルクス主義における「社会構成体の下位分化」論とでは、内部分化を論じているという点ではあまり変わりがないように思うのですが。
システム論が必要な研究というのが思いつきません。システム論に乗っかった面白い研究があったら教えてください。
このシリーズ講義で提示されてきた「ルーマンとのつき合い方」にとって、「機能分析」というものがキーになっていたように思います。しかも講義では、単にルーマンの述べたことを紹介するだけでなく、ルーマン理論に対しても機能分析が適用されていました。たとえば今日の講義でも、といった形でのシステム理論(の必要性)の紹介が行われていました。
- システム論は、思考の抽象度を上げるために使われている。それは「ヨーロッパ人がヨーロッパについて考える」という課題のために必要だったのだ。
- そうしたかたちで抽象度を上げるための手段は他にもあり、「歴史を参照する」「他の地域を参照する」などがその例である。
- 実際、社会学は伝統的に、歴史学と人類学をそのような仕方で利用してきた。
- 歴史学・人類学・システム論は、「思考の抽象度を上げる」という一つの同じ課題のために組み合わせて使うことができ、ルーマンもそうしている。
これは、外向けにルーマンを紹介するときに大事だと考えてそうしているのか、それとも酒井さん自身がルーマンを読むときに〈準拠問題・機能分析〉を重視しているということなのか。どちらでしょうか。
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『権力』におけるルーマン理論の基本骨格の提示 | ルーマン理論における技術論 | |
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西洋の個人主義が国家と教会という中世的な二元論に促されて現れてきたこと、そこから直ちに経済セクターの自律的な役割要請が剥離せしめられたことは決して偶然ではない。
三身分──教会身分・政治的身分・経済的身分──は異なったヒエラルヒーとして並行的に現れてくる。…個々人は自己自身を整合的に維持しうる選択原理としなければならない。すなわち、彼はデザイナーであり、社会民主党に投票し、ポルシェを運転し、そしてベレー帽をかぶる等々。個人主義の機能的意味付与は それゆえ全面的に個人の差異性に立脚する。
社会発展は一人ひとりに、まったく構造化されていない反省の重荷を割り当てる…。/18世紀の終わり近くにスタートした個性の意味論は、こうした〈自己規定への解放〉に協力し、無思慮にもそれを祝った。… その際、個人が自己規定のための反省の負担にどうすれば耐えていけるか、問われることはなかったのである。こうして、解放の夢と心的外傷の愁訴が残される。それらをもたらした社会分化も保たれているのだから。だが、まさにそうした問題連関への洞察が依然として欠けているのだ。/ただ、幸福への期待に反する経験も、とくに小説や自伝によって詳しく書きとどめられ、容易に参照できる形になっていりる。〔18世紀~19世紀の文学作品の例〕…
許しがたいことだが、社会学はこうした世界をまるごと視野の外に置いた。… 〔だから〕特殊社会学的な個人概念が発展することはなかったのである。
これに対して共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をも持たず、どこでも好きな部門で、自分の腕を磨くことができるのであって、社会が生産全般を統制しているのである。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚釣りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に評論をすることが可能になり、しかも決して猟師、漁夫、牧夫、評論家にならなくてよいのである。ニクラス・ルーマン(1964)『制度としての基本権』第3章(木鐸社、73頁)
個々人は自己自身を整合的に維持しうる選択原理としなければならない。すなわち、彼はデザイナーであり、社会民主党に投票し、ポルシェを運転し、そしてベレー帽をかぶる等々。個人主義の機能的意味付与は それゆえ全面的に個人の差異性に立脚する。
ルーマンがこの講演集を刊行した意図はどのようなものだったのでしょうか。
1990『自己言及性について』 | 1990『社会学的啓蒙5:構成主義的パースペクティブ』 | 1992『近代の観察』 | 1995『社会学的啓蒙:社会学と人間』 |
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- 1960年代から70年代半ばのルーマンの著作は、
という基本姿勢によって書かれている、という話がありました。ここで想定されている規範的研究とはどのようなものなのでしょうか。
- 規範的研究と経験的研究との分断を、
- 規範的研究を決定工学によって捉え直すとともに経験的研究をシステム理論によって捉え直すことによって、両者の連携を図る
- 「決定工学」という言葉を初めて聞いたのですが、ここに謂う「工学」とはどういう意味ですか。
実存主義やフランクフルト学派との決定的な違いとして、ルーマンが「大衆社会論」を受け入れていないという点が挙げられていました。これはどの本に書いてありますか。
ツイッターで「ルーマンはなぜ批判せず褒めるのか」という点について述べると予告していましたが、本日の講義でも話されなかったようです。